| ぼうねんかい |
−2−
いつの頃からだっただろうか、彼女が再び彼に笑顔を向けてくれるようになったのは。
あの紅い海から帰ってきた時、彼女は笑顔を失っていた。
彼と交わすのは必要最低限の言葉のみ。一緒に暮らしてはいても視線すら合わせようとはしなかった。
しかし、だからといって彼もこれといって何もしようとはしなかった。
さみしい、とは思っていたが積極的に関わろうとはしなかった。
全く自分の気持ちに気付いていなかったから。
いや、気付くのが怖かったのかもしれない。
あの紅い海で彼女が隣に居た意味を考えるのが怖かった。
自分の気持ちに気付かなければ傷つくことは無いから。
彼はあの紅い海の出来事を経験しても尚、成長しようとはしなかった。
残念ではあるが、人はそう簡単には変われはしない。
そんな彼が変わった出来事。そんな彼でさえも変えてしまった出来事。
彼女が突然家を出る、と言い出した。
荷物をまとめ、最後に「さよなら」と言われた瞬間全ての感情の波が彼に襲いかかった。
彼は出ていこうとする彼女に必死に泣きすがった。
離せ、ふざけるな今さらと散々罵倒され何度も殴られたが、彼は絶対に離そうとしなかった。
ここで離せば二度と会えない。
そう感じたから。
そして、自分にとって彼女がいかに大切なものだったか、こんな時になってやっと気付いてしまったから。
彼は彼女にしがみつきながら気を失った。
自分の部屋で目を覚ました彼の側には、彼女は居なかった。
激痛に痛む身体を無視して飛び起き、彼女を捜しに外へ飛び出そうとする。
必死に体を動かし、玄関へ向かおうとリビングを通り過ぎた瞬間我が目を疑った。
彼女がリビングに座っていた。
彼女は出ていかなかったのだ。
その日からの彼は必死だった。
出ては行かなかったが、彼女は彼に笑顔を見せてくれはしない。
そして彼女の洗礼は始まった。
最初の洗礼は無視。
まるで空気のように、そこに居ないかの様に扱われた。
彼がどんなに話しかけても、笑いかけても視線すら合わせようとはしてくれなかった。
それでも彼は諦めなかった。
そもそも彼女が笑顔を失ったのは自分の責任が大半だと思っていたから。そして、どんな目に遭っても彼女の笑顔が見たかったから。
次の洗礼は罵倒と暴力。
あらん限りの罵倒を受け、時には殴る蹴るの暴行を受けた。
それでも彼は諦めなかった。いや逆に嬉しいと感じる気持ちすらあった。マイナスの感情だとしても彼女が自分の事を見てくれる。それだけで嬉しかった。
どんな目に遭っても彼女に笑顔を向け続けた。そのうちに、時々彼女が穏やかな表情を見せるようになった。
どんな目に遭っても彼女に話しかけ続けた。そのうちに、時々彼女が会話を交わしてくれるようになった。
そんな時期がしばらく過ぎた頃、彼はある物を用意した。
今の自分の全てを掛けたもの。自分の想いの全てを込めたもの。
真剣な話がある、と彼女を公園へ呼びだした。
家でも良かったのかもしれない。しかしどうしてもあの公園、ユニゾンの時に二人で短い時を過ごしたあの公園で渡したかった。
彼のそれまでの人生の中で一番真剣な瞬間だった。
彼女へ自分の想いの全てが詰まった小箱を渡す。
それは彼が命を懸けて敵と戦った代償を全て使って手に入れた物。
いや、彼にとってそんな事はどうでも良かった。自分の全てを彼女に捧げたかった。
怪訝な表情で小箱を受け取った彼女。
中身を見た瞬間、彼女が凍り付いたように動かなくなった。
そして彼は自分の全ての想いを彼女にぶつけた。
結婚して欲しい。ずっとあなたの側に居させてください。僕はあなたの側にしか居たくありません。
それを聞いた瞬間、見開かれた彼女の瞳からは涙がこぼれ落ちていた。
うずくまって泣き出す彼女。彼からもらった小箱を大事そうに抱えながら。
突然うずくまって泣き出した彼女に、彼はうろたえてどうして良いか解らない。
少し考え、自分の心に素直にしたがって彼女に手を伸ばそうとした瞬間、彼女が視界一杯に飛び込んできた。
甘い匂い。柔らかい髪。たおやかな肢体。
彼の求めてやまなかったものが、自分の腕のなかに在る。
彼は夢を見ているかのように陶然と彼女を抱きしめた。
夢のような甘い抱擁もいくばくかが過ぎて彼女の涙も止まり掛けた頃、彼女が呟いた。
「良いわよ。」
それからの彼女は驚くほど変わっていった。
穏やかな表情をしてくれるようになった。
会話をして交わしてくれるようになった。
心からの笑顔を向けてくれるようになった。
何よりもいつも側に居てくれるようになった。
今、彼は思う。
もしかしたら、あの時彼女は自分を試していたのかもしれない。
本当に自分が彼女を必要としているのか。何よりも本当に彼女を愛しているのかを。
それは彼らが16歳の時。
そして彼らは2年後、夫婦となった。
(つづく)
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