『潔癖症は辛いわよ』尊敬する人がそう言った。
 だけど、簡単には変われない。



潮騒の響き、とめどなく
歳時記之参 byガラガラ猿




(やっぱり、来なきゃ良かったなぁ)
 1BOXカーの後部座席に座り、窓の外を流れる風景を見ながら、伊吹マヤは思っていた。
 隣に座る男が、ちらちらと視線を向けてきているのが、わずらわしい。
 さっきから何も喋っていないから、心配してくれているのかもしれないが。
 普段の彼女なら、愛想笑いの一つも浮かべているところだが、今はそれも億劫だった。
 前では、ハンドルを握る男が、しきりに隣の女に話しかけ、彼女もまた、笑いながらそれに答えている。聞かされていなかったが、二人はすでに出来ているらしい。
 面白くない。苛立ちを覚えるマヤ。
 彼女の横顔を、ちらりと恨めしげに見るが、全く気付いた素振りはなかった。
(とりあえず、こうしてよう)
 車に酔ったフリをし始めてから、もう一時間。
 最初は心配してくれていた彼女も、もはや気にするのをやめて、自分達だけで楽しむことにしたらしい。
 何もかもが、気に入らないことばかりだった。

『NERVが忙しくて、大変なのはわかるけどさ、たまには付き合いなよ』
 何度も電話をかけてきては、そう言う大学時代の女友達の誘いを断りきれず、海に行くことになってしまったマヤ。
 たまには仕事のことを忘れよう、気分転換も必要よね、と、自分に言い聞かせながら、待ち合わせ場所に向かった彼女を待っていたのは、友人と二人の男性だった。
『ちょっと、女だけで行こうって言ってたじゃない!?』
『まあまあ、いいから、さ。ほら、早く行こう?』
(はめられた!!)
 と気付いたものの、後の祭り。うやむやの間に、車に乗せられてしまっていた。
 今、マヤの隣に座る男は、今日初めて会った男。
 と、思っていたのだが、どうやら大学が一緒だったらしく、彼はマヤのこと知っていた。授業が一緒だったことがある、と言われたが、全く記憶にない。
 素直にそう言えばいいものを、人付き合いの良い彼女のこと、適当に話を合わせたのが良くなかったのだろう。
 彼は延々と、マヤに声をかけ、根掘り葉掘り尋ねてきた。
 曰く、大学時代はどんなことを専攻していたのか。曰く、NERVでどんな仕事をしているのか。曰く、仕事はやっぱり厳しいのか。
 曰く、彼氏はいるのか。
 笑顔で答えていられたのは、最初だけ。段々と苦痛になり、気持ち悪くなったから、と外を見始め、目をそらせていたのだった。

 マヤにも、友人の気持ちがわからないではないのだ。
 仕事、仕事で、ろくに遊びに行くことすら出来ない自分のことを、心配してくれたのだろう。
 その気持ちは、本当に有難いと思う。
 しかし。
(男を紹介してなんて、一度も言ったことないのに……)
 それが余計だった。しかも彼女は、純粋に心配してくれているのだから、なおさら性質が悪い。
 別に、マヤとて、恋人が欲しくないわけではない。疲れて帰ってきて、一人の部屋で食事をしている時など、特に思う。
 誰かが側にいてくれれば、と。
 だが実際には、忙しすぎて探す暇がない。もし仮に付き合いだしたとしても、デートなど出来ないだろう。時間がいくらあっても足りないほどのハード・スケジュールをこなしているのだから。
 それに、マヤはそんな現状に満足している。やりがいのある仕事だと思っているし、自分が必要とされていることを感じる。NERVからはもちろん、尊敬する赤木リツコからも。
 だから、恋人など、今は必要ない。
 マヤは、そう考えている。

「あの……大丈夫ですか?」
 とうとう沈黙に耐え切れなくなったのだろう。男が声をかけてきた。
 マヤは少しだけ目を動かして、彼の顔を見る。
 確かに、一般的な基準から見れば、かっこいい方だろう。友人がマヤに薦めるのも納得がいく。話を振ってくれたのも、盛り上げようとしたからだろうし、今、彼女を心配そうに見ているところからも、彼の人の良さがわかる。
「ごめんなさい……さっきよりは良くなったみたいなんだけど……」
 それでも、マヤは話す気がしなかった。
 悪い、とは思う。
 だが……彼を恋人にした自分、というものが想像出来ないのだ。いや、彼に限らず、自分が恋人と共にいる姿が思い浮かばない。
 そうなったのは、いつ頃からなのか、マヤにはわからなかった。
 大学時代、周りの友人達が恋人を作って遊びまわっているのを、羨ましく思っていたのは確かだ。
 ただ、あの頃も研究に没頭していて、そういった機会がなかった。それに、いつかは自分も、彼女らのように恋人が出来るものだと信じていた。今はまだその時期じゃないだけ、そう自分に言い聞かせて。
 それとは別に、友人達からは、白馬の王子様願望、とよくからかわれたものだった。マヤはもてるのに、理想が高すぎる、と。
 もちろんマヤにも、言い分はある。女友達が、合コンや何やと連れまわしてくれるのだが、そこで知り合った男に、自分の何がわかると言うのか。
 ろくに話したこともない癖に、告白をしてきたり、あわよくば家に連れ込もうとする男達ばかり。
 そんなのを紹介されても、付き合いたいとは思わない。
「不潔よ、そんなの」
 別に異性に幻想を抱いているつもりはないし、いざ恋人同士になれば、いつかは一線を越えることもあるだろうということもわかっている。
 それでも、最初から欲望にまみれた目をされていると、マヤの感性では、不潔としか思えないのだ。
「ホント、マヤはボケボケなんだよねぇ」
 そう言って笑った女友達がいた。
 周りの人間から見れば、マヤは、自分の魅力がわかっていない、ということになる。
 男からすれば、マヤみたいな可愛い女の子を、自分のモノにしたいと焦るがあまり、行動が先走ってしまうのだ。彼女はそれを理解していない。
 もっとも、だからこそ、マヤは友人達から愛されていたのだ、とも言える。これで自分の美貌を鼻にかけていたとしたら、ただのお高く止まった女にしか見えなかっただろう。
 結局、マヤは、恋に恋する少女、というのが友人達の共通の認識だった。恋愛小説の中にしかないような関係に憧れている姿は、もどかしくもあり、また可愛くもある。
 マヤは直接、そう伝えられたこともあったが、否定することも出来ず、ふくれるしかなかったものだった。子供の頃から、恋愛小説を好んで読んでは、胸をときめかせていたことは事実でもあったし。
 それが現実に影響していると言われるのは、あまり心地良いものではなかったけれど。
 しかし、確かに大学時代は、恋人がいて、デートをする自分を想像できたのだ。
 それが、今は、違う。
 となれば、NERVに入った後なのか。自分が変わったのは。

 考えていたマヤの視界いっぱいに、唐突に青い海が広がった。
 陽光を照り返しきらめくその姿に、マヤは目を細める。耳をすませば、寄せては返す波の音が。
 はしゃぎ出す友人と、男二人。埒もない考えを頭から追い払い、彼女は海をただ見つめる。
 状況はともあれ、綺麗なものは綺麗だ。
 それだけが、マヤの心を軽くする。

「はぁ……」
 燦燦と照る太陽。水平線の彼方に広がる白い入道雲。はしゃぐ人達。
 場に似合わぬ大きなため息をついて、一人、マヤは砂浜を歩く。
 友人達が探しているかも、という考えがちらりと頭を走るが、どうでもいいと打ち消す。
 今は何となく、一緒にいたくない。友人がベタベタするのを見せ付けられるのも、余った自分達が恋人のように思われるのも、そして友人がそうなることを期待しているのも。
 とにかく、何もかもがわずらわしかった。
 だから抜け出してきた。
 周りを見れば、家族連れや友人連れ、それとカップルばかり。当たり前だろう。一人でこんな海水浴場に来るなんて物好き、そうはいない。
 キャアキャアと騒いでる女の子達を見る。派手な色使いのビキニやパレオ。体を最小限しか隠さないことで、自分達の女をアピールし、周囲の視線を釘付けにさせている。
 翻って、マヤは。
 極々普通の、薄い黄色のワンピースの水着。飾り気などない。ウェストは細いと思うが、バストは控えめだ。
 何だか、泣きたくなってきた。マヤは目を伏せる。
「……こぉらぁ、バカシンジッ!!どこ見てんのよっ!!」
「痛いっ!どこも見てないだろ」
「アタシ以外の女を見るなんて、いい度胸してるわねっ!!」
「だから見てないって!!」
 その耳に、聞きなれた声が飛び込んできて、彼女は顔をそちらに向けた。
「あれ、マヤさん?」
「こら、何、話そらそうとしてんのよっ!!」
「そうじゃないって!!痛いから、耳引っ張らないでよっ!!ほら、あそこ」
 言われて、振り向く少女。
 どうやら、自分よりも先に、二人が見つけたようだ。マヤは、軽く微笑んで、手を振る。
「アスカちゃん、シンジ君」
「……マヤ?」
「だから言ったじゃないか〜耳、離してよっ」

 予期せぬ出会いに驚き、とりあえず挨拶を交わす三人。
 アスカとシンジは、高校が夏休みに入り、ちょうどNERVでの用事もないので、ここに来ているのだという。
 とりあえず、三人でパラソルの下に座り、冷えたジュースを飲む。
「アスカちゃんにシンジ君も、ここに海水浴に来てるの?」
 マヤは隣に座る二人に目をやりながら、そう問いかけた。
「海水浴……ちょっと違うわね」
 ジロリ、とシンジを見やるアスカ。シンジはそっと目をそらしている。
「……?何?」
「バカシンジがね、信じらんないことに、この年になって、ま〜だ泳げないって言うのよっ!!だから特訓に来たってわけっ!!」
「いいじゃないか、別に。泳げなくたって」
「恥ずかしいのよッ、アタシの彼氏がカナヅチだなんてね!!」
「ア、アスカちゃん、そのへんで……」
 視線が集まっていることに気付き、マヤは顔を赤く染めて、アスカを止めた。
 恥ずかしくて、穴があれば入ってしまいたい。ギャアギャアと言い合う二人を見ながら、マヤは心底、そう思うのだった。

 だけど、友人達といるよりは、心地よい。そうマヤが思ったことも、事実だった。

「ほら、シンジ、しっかり足を動かして」
「うん……こう?」
「そうそう、上手じゃない。やれば出来るんだから、自信持って」
 マヤの目の前で、二人が浅い所で泳ぎの練習をしている。
 泳げないことを徹底的に責めていたアスカだが、いざ練習を始めると、その指導は優しく、わかりやすいものだった。シンジも、水に入るまでは嫌がっていたが、今は真剣な目で、彼女の言う通りにしている。
 微笑ましい姿だ、と思うマヤ。特にアスカが。
 出会った当初は、口の悪さと旺盛な自己顕示欲に、辟易したものだった。
 それが今は、穏やかな微笑を浮かべ、恋人の為に力を尽くしている。
 大体、特訓といったけれど、泳ぐ練習だけならば、何も海に来る必要はない。NERVのプールですればいいことだ。
 それをわざわざ、こんなに人の込む夏休みに海に来ているのは、おそらく、ただ二人で出かけたかった、というだけのことだろう。
 こんな可愛らしい部分があったことを、マヤは知らなかった。きっとそれは、シンジが引き出したアスカの魅力なのだろう。
 もちろん、全てが変わったわけではない。
 彼女が着ている水着は、真紅のワンピース。いつだったか、本当に体に自信のある女性は、シンプルな水着を好む、という話を聞いたことがある。その方が、スタイルの良さがはっきりとわかるのだ、と。
 実際、彼女は、同年代の少女を遥かに凌駕した体つきをしている。胸は大きく、だが腰はくびれていて、紅茶色の髪と、青い瞳に、身に纏う赤が映えている。
 水着の背中の部分は大きく開いていて、艶かしい白の柔肌を、惜しげもなくさらしている。男達の注目を浴びていることに気付いているのか、そうでないのか。
 同じワンピースなのに、どうしてこうも違うのだろう。悲しいのを通り越して、単純に賞賛することしか、マヤには出来なかった。
 
 それにしても。
 マヤは、ふと思った。
 幸せそうだ。いや、幸せなのだろう。二人は。
 胸を締め付ける痛み。マヤは、のどかな時間を過ごす二人が、実は途方もなく辛い体験をしてきたことを知っている。
 彼女自身、彼らを追い詰めていた。そのつもりは、なかったのだけど。だからといって、許されるわけではない。
 エヴァンゲリオン。そのパイロットである二人。傷つけあいながらも、その中で信頼を築き上げた二人。戦いの後も、共に手を携えて歩いている。
 二人の絆の強さは、余人に入る隙間などない。
 だけど。
 マヤは、思いを馳せる。
 少年と少女を、戦いに駆り立てた自分達、大人。エヴァという謎だらけの物に乗せ、やはりわけのわからない使徒なる物と、争わせた。
 ただの争いではない。それは、人類の命運が賭けられていた。
 あの二人を含めた数人の子供達、その幼い肩に、全ての人の命が託されていたのだ。
 それだけではない。彼らは、もっと多くの物を抱えていた。
 シンジは、実の親に捨てられ、訳もわからぬままにNERVへ連れてこられ、戦わされた。
 アスカは、母親に認められようとエヴァのパイロットになったのに、彼女は結局、アスカを認識することも出来ず、自らの命を絶った。
 重い過去を背負い、さらに大人達に利用されていた彼女達。
 マヤの顔に、影が落ちる。
 他人事ではない。自分も、当事者なのだ。
 子供達に戦わせて、何をしていたのか。マヤは自らに問う。
 彼女と、彼女の尊敬する赤木リツコが開発した、ダミープラグ。
 少年達をこれ以上、苦しませないように、と作り出したそれは、しかし、シンジの心を傷つけただけだった。
 怒り、猛るシンジを静めることも出来ず、司令の言うがままに、LCLの圧力を上げたあの瞬間。
 無力だということを、思い知らされた。
 何のために、自分はここにいるのだろうか。あれから何度も、考えた。
 答えの出ぬまま、惰性で働き続けたその後の日々。
 全てが崩壊へと向かっていることに、気付きもせぬままにいて。気付いた時には、手遅れになりかけていた。
 アスカが心を壊し、エヴァに乗れなくなってしまった時、彼女の安否を気遣いながら、しかし何も出来なかった。
 結局、マヤは、そしてNERVは、子供達に救われた。
 荒ぶる鬼神と化し、量産型エヴァンゲリオンを屠る初号機と弐号機。
 アスカを救ったのが、シンジだったと聞かされたのは、その戦闘のさなか。
 彼女はまた、思い知らされる。自分は、子供達に救われるばかりで、何もしてやれない存在なのだと。
 戦いは、確かにNERVの勝利だった。
 だがそれは、全て彼ら子供達が成し遂げたことで、マヤは自分が、ただの傍観者に過ぎなかったのだと、深く落ち込んだ。
 少年達は、そんなマヤにも、ねぎらいの言葉をかけてくれる。赤木リツコも、また。
 だがそれで癒されることがあるだろうか?
 全ての事柄が、彼女の意思の外で動いていた。
 されど、運命、という言葉に逃げられはしない。何が出来たかなど、今もってわからないが、問題は、何もしようとしなかった自分の意思。
 ただおろおろとして、惑うばかりだったが、本当は。
 動くことが出来たのではないか。よくわからないからと、逃げる前に。
 全てを他人任せ、流れに巻き込まれて動くだけで、思うばかりで抗うことをしなかった。
 子供達のように、彼女は生きられなかった。
 だから、思う。

 自分が、不潔だと。

「あれ?彼女、一人?」
「良かったらさ、俺達と遊ばない?」
 突然、降ってきた声に、マヤは顔を上げる。二人の見知らぬ男が、薄い笑いを浮かべながら、自分を見下ろしていた。
「あ、い、いえ、大丈夫ですから!!」
 マヤは腕で胸を隠しながら答える。男達の嫌らしい視線が、水着を通り越して、自分の素肌を蹂躙しているような気がして。
「そんなこと言わないでさ。一人じゃ、寂しいっしょ?」
「そうそう。楽しくしたげるからさ」
 男達は、マヤを挟むように座り込み、しきりに声をかけてくる。よく焼けた顔に浮かぶ笑顔は、爽やかという言葉からは程遠く、卑猥なものにしか見えない。
 言葉に詰まる彼女の肩を、男達が馴れ馴れしく抱こうとした瞬間。
「くぉらぁぁぁ、アンタ達っ!!マヤに何してんのよっ」
「アスカちゃんっ」
 マヤの窮地に気付いたのだろう。海から上がってきた彼女を見て、マヤは安堵しかける。
 が、考えてみれば、男達にしてみれば、獲物が増えたぐらいにしか思えないだろう。数も、ちょうど合う。
 案の定、うるさそうに振り向いた男達の目は、そこにいる女神のごとき美貌を誇る少女の姿に、好色そうな光を浮かべていた。
「あれ?君、この子の連れ?」
「じゃあさ、一緒に遊ぼうよ。女同士なんて、つまんない……っ!?」
 ズカズカと近づいてきたアスカの足が一閃し、男が股間を抑えながら崩れ落ちる。
「はっ!!お生憎様っ!!ナンパなんかするような、軽い男に用はないのよっ!!」
 倒れた相棒を見て、顔を引きつらせる男に言い放ち、アスカは呆然としていたマヤを助け起こす。
「大丈夫?マヤ。こいつらに何かされなかった?」
「え?え、ええ。大丈夫よ。ありがとう、アスカちゃ……危ないっ!!」
 アスカの仕打ちにキレたのか、拳を振り上げて殴りかかろうとする男を目にし、マヤは咄嗟に叫ぶ。
 だが、アスカは振り向こうともしなかった。
「……つぅっ!イタタタタタタッ」
「ごめんなさい。でも、僕の彼女に手を出さないでくれますか?」
 いつの間に近づいてきていたのか、シンジが男の片手を後ろ手にとり、ひねり上げている。暴れる男に、シンジは一つ、ため息をついて、足を払って砂浜に倒した。
「遅い、シンジ」
「ごめんごめん。でも、僕が来ることもなかったんじゃ……」
 砂浜に男の顔を押し付けながら、もう一人、苦悶し続ける男を呆れたように見るシンジ。
「こういうのは、男が助けに来るもんでしょうが。可愛そうに、マヤ、怖かったでしょ?」
「え?あ、ええ、まあちょっと……」
 呆気なく自分よりも背の高い男を倒した彼の姿を、唖然として見ていたマヤは、アスカの声にかろうじて反応できた。
 少年がこれほどまでに強くなっていたことを、マヤは知らなかった。ほとんど、手玉にとる、といった感じだ。NERVで戦闘訓練を繰り返してきていたシンジにすれば、訳もないことなのだが。
「そうでしたね。すいません、マヤさん」
「プハァッ!!」
 やっと解放された男が、砂を吐きながら立ち上がる。
「テ、テメェッ!!」
「何よ、まだやるっての?」
 拳を固める男に、アスカは苛立った瞳で睥睨する。
 ふと、何かを思いついたのか、小悪魔のような表情を浮かべると、シンジの肩にしなだれかかり。
「ん、んん〜」
 いきなり彼の顔を引き寄せ、熱烈な口付けをする。シンジも、マヤも、見ていた男達も、突然の彼女の行動に凍りつくばかりだった。
「ん……ふぅ。さ、これでわかったでしょ?アタシとこいつの仲が?」
「……それだけなの……?」
 マヤは小さく呟く。
 効果的ではあったのだろう。フラフラと立ち去る男達を、勝ち誇ったように見るアスカ。
「アスカ……」
 困ったように呟くシンジ。多分、自分と同じことを考えているのだろう、とマヤは想像する。
「何もわざわざ、見せ付けなくても良かったんじゃないの?」
「ん?別にいいじゃない。ホントのことなんだしね」
「……ま、いいけどね」
 肩を落とすシンジを、少し悪戯っぽい笑顔でアスカが見ている。
 そんな二人の様子が可笑しかったマヤは、軽く声をあげて笑ったのだった。

「はぁ、やれやれ」
「お疲れさま、アスカちゃん」
 あの後も、シンジに泳ぎの指導を続けていたアスカ。遠く、水平線に大きな太陽の下端が触れかかる頃、やっと彼女は海から上がり、マヤの元へと戻ってきた。
 手渡されたスポーツドリンクを、ストローに口を付けて飲む。肩にかけた青と赤のタオルで、濡れた体を軽く拭きながら、アスカはマヤに目を向けた。
「マヤは泳がないの?」
「ううん、私はいいの。見てるだけで」
 本当に、それで良かった。
 アスカの教えを必死になって飲み込もうとし、少しずつ泳ぎを上達させていくシンジ。
 二人の姿を見ているだけで、何となく、幸せな気分になれたのだ。
「ふうん。そう」
 不思議そうに一瞬、マヤを見たアスカは、すぐに目を海へと向ける。
 そこには一人、まだ練習を続けているシンジの姿があった。
「頑張ってるわね、シンジ君」
「まだまだよ、アイツ、やれば出来るのに、やろうとしないんだもの」
 そう言ったアスカの横顔を、マヤは盗み見た。機嫌の悪そうな声を出そうとしているけれど、落ちゆく夕日に赤く照らされた彼女の顔は、とても穏やかなものだった。
 シンジの様子を見ていればわかる。やらされているわけではなく、自分から泳ごうとしているということが。
 それは彼自身のためでもあるが、きっと、アスカの存在が彼にとって、大きなものだからというのもあるだろう。
 だからこそ、彼女は。
 微笑を浮かべて、見ていられるのだろう。彼のことを。
「そういえば、さ」
 美しい彼女の横顔に、瞬時、見とれていたマヤは、アスカが急にこちらを見たので、思わず手に持っていたジュースの缶を落としそうになる。
「……?どうしたのよ、マヤ」
「な、何でもないわよ。それよりも、どうしたの?」
 照れ隠しの笑みを浮かべるマヤ。夕焼け空で良かった、と思う。でなければ、顔が赤くなっているのが、ばれたに違いない。
「ん……さっき、さ。アタシがシンジにキスした時、さ」
「ああ、あれ」
 思い出しただけで、顔から火が出そうだ。あんなに熱いキスを目の前で見させられるのは、初めてではないだろうか。
「マヤ、何も言わなかったじゃない?」
「え、ええ。まあね」
「……おかしかった?」
「……え?」
 わけがわからず、アスカの顔を見るマヤ。彼女は、恥ずかしそうに、顔を膝に埋めながら、沈み行く太陽を見ている。
「だから……その……キスが、変だったのかなって」
「……は?」
 彼女の言っている意味がわからず、間抜けな声を上げてしまったことにすら気付かないマヤ。じっとアスカを見つめて、その言葉の意味を探る。
 彼女はさらに体を縮こまらせながら、チラチラと遠くに泳ぐシンジを見ながら言う。
「アタシ、さ……その……シンジ以外の人とキスしたことないし……マヤから見たら、あのキスって、何か変なのかなぁって……一応、恋人同士のキスのつもりなんだけど……」
 口ごもりながら、秘密を告白するかのように話すアスカの顔からは、普段の気の強さは欠片も見られなかった。
「そ、そんなこと、ないと思うんだけど……」
 何と答えればいいのかわからず、結局、当たり障りのない言葉しか、口から出てこなかった。
「そう?良かったぁ」
 心底安心したのだろう。肩の力を抜いて、満面の笑みを浮かべている彼女。
 自然と、マヤも笑顔になる。
「それにしても、何で、そんなこと思ったの?」
 不思議に思い、尋ねる。
「ん?ああ、だってマヤってさ、ああいうのってダメそうだし。何か、不潔ぅ、とか言いそうな感じがしてたから。アタシ達のキスって、そんな風に見えないのかなって」
 何だ、それは。自分がどういう風に見られていたか、察してしまうマヤ。
 あながち外れでないことが、虚脱感を誘う。
「……そんなことないわよ」
 あれは恋人同士のキスだった。そう保証するマヤは、ふと、物思いにふける。

 確かに、シンジとアスカのキスを見た時、咄嗟に思ったのは、不潔だ、ということだった。
 そういう点で、自分は遅れていると思う。
 理性ではもちろん、納得出来ている。恋人同士になって、キスの一つもしない方がおかしい。
 それどころか、それ以上、進んでいたって。
 だが、彼女達はまだ高校生、しかもまだ入りたてなのだ。
 マヤの倫理観からすれば、早熟に過ぎる。男女七歳にして同衾せず、とまでは言わないが、きちんとした分別が付くようになるまでは、プラトニックな恋愛が望ましい。
 いつの時代の人間だ、とからかわれるが、そう感じてしまうのだ。仕方がない。
 結局は、マヤの感性の問題なのだろう。
 若さは罪ではない。だが、若さを全ての言い訳にするのは、許されない。
 恋は自由だ。だが、責任をとれもしないのに、暴走するのは、恋ではないと思う。それは単なる欲望の処理でしかない。
 そう、思ってしまう。
 それ故に。
『不潔……』
 二人のキスを見て、口から出かけた言葉を、しかし。
 マヤは飲み込んだ。
 彼女達の歩んできた道を思い出したから。
 イバラの道、なんて言葉が甘っちょろいものに見えてしまうほど、傷つけるものばかりの日々。
 その中で二人が育んできた愛情。
 口を出すことは、許されない、誰にも。
 ましてや。
 自分は、彼女たちを傷つけていた側の人間だ。
 どうして、そんなことを言う権利があるだろうか。

 また、思う。
 自分が、不潔だと。 

「そっか。良かった」
 ほっとするアスカの横顔は、年相応の少女のものだった。
 そうだ。考えてみれば、彼女はまだ高校生なのだ。アスカやシンジの過去を知っているからか、時折、彼らが見せる大人びた横顔に、ドキッとさせられることがあるから、忘れがちなのだが。
「クスッ」
 思わず吹き出してしまう。アスカが、キスのことで悩むなんて。乙女心、なのだろう。
「何よ〜マヤ。笑ったりして」
 ふくれて見せるアスカ。本人は至って、真剣だったのだろう。マヤは慌てて謝る。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
「そりゃま、マヤなんかに比べたらアタシなんて、まだまだなんだろうけどさ」
 キョトンとする彼女に、アスカは言葉の爆弾を投じる。
「マヤの方が、そりゃ経験豊かだろうし、キスもいっぱいしてきたんだろうけど」
「な、な、な、何言ってんのよっ!!」
 大声を出して、立ち上がってしまう。口もどもろうというもの。唐突に過ぎる、そんなことを言われては、慌てる他無い。
 思わぬ反応を見せたマヤに、アスカは驚いて目を見開いていた。
「ど、どうしたのよ?」
「……ごめんなさい。ちょっと取り乱しちゃった」
 人が少なくなってきたとは言え、自分を見る他人の視線から隠れるように、マヤは腰を下ろし、膝を抱えて小さくなろうとする。
 キョトンと首をかしげているアスカに、マヤは小さな声で伝えた。
「私、まだキスしたことないもの……」
「え?嘘でしょ?」
 大きな声で驚かれて、出来ることならこの場から消え去りたいとマヤは願う。
「本当ですっ」
「……は〜」
 深いため息をつくアスカ。その意味がわからず、チラリとマヤは、アスカを見る。
「まったく、マヤの周りにいた男って、何してるのかしら。こんな可愛い女放っておいて」
「……可愛い?」
 それが自分のことだと、信じられなかった。マヤは改めて、自分とアスカの水着姿を見比べる。
 どこが可愛いと言うのだろう。
「もしかしてマヤ、自分が可愛くないと思ってるの?」
「え……だって……もう、お世辞はいいわよ」
 可愛いと言われたことがないわけではない。友人達からは、割とよく言われる。
 だがその可愛いは、女性的魅力としての可愛いではなく、どちらかと言えば、小動物に向けられるような可愛いだと感じられるのだ。
「お世辞なんて言う訳ないでしょ。マヤは可愛いわよ」
「え……でも……」
 チラチラをアスカの肢体に目を送るマヤ。顔も、スタイルの良さも、適わないと思う。これでまだ、発展途上なのだから、驚きだ。成熟しきった時が恐ろしい。同じ女性として。
「アタシと比べたら、どんな女だって見劣りしちゃうわよっ!!」
 マヤの視線に気付いたのだろう。軽く胸を張ってアスカは答える。
 こういう自信過剰な所は、相変わらずなのよね。マヤは心の中でそっと呟く。まあ事実ではあるのだけれど。
「それでも、マヤはいいとこいってると思うわよ。そこらの、男に媚売るような水着しか着てないような女達に比べれば」
「ア、アスカ。声が大きいわよ……」
 周りにいた女性達のこめかみに、血管が浮いたのを、マヤは見たような気がした。もっとも、面と向かって言う度胸のある人間はいないだろう。美の神にひいきされたような彼女と、自分を並べてみようと思える女性は、よほどの命知らずだ。
「だから、自信持ちなさいよ。マヤは可愛いんだから。アタシが保証したげるわ」
 一転、優しい声をかけるアスカ。その顔に浮かんだ、どこか子悪魔的な、それでいて瞳に大きな優しさを湛えた瞳に、マヤはパニックに陥りそうになっていた心が落ち着いていくのを感じた。
「そう?……ありがとう」
 照れてしまう。本気で自分が可愛いとは思わないけれど、人に他意なくそう言われれば、少しぐらいは自信が付きそうだ。
 それが他ならぬアスカに、なのだから、余計に。
「だから、さ。彼氏でも作ったら?」
 表情がくるくる変わる少女だ、とマヤは呆れそうになる。ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら、近づいてくる様子は、誰かに似ていた。
「結局、そこにいくのね……」
 大きく息を吐くマヤに、アスカはにじり寄ってくる。
「どうなのよ?ね、誰かいるの?」
「いませんっ!!今は作る気もないし」
「えぇぇ?ホントにぃぃぃぃ?」
 大げさに驚き、なおも問いかけようとしてくるアスカを止めるために、マヤは切り札を見せた。
「……アスカちゃん、そうやってると、葛城一尉みたいよ?」
「ぐっ!!」
 さすがにショックだったのだろう。言葉につまり、顔をのけぞらせる。
 そこまで嫌だったのか、と思うが、考えてみれば自分も、ああいうデリカシーのない女性と一緒にされるのは御免だ。それ以外では、とても優秀だし、いい人だと思うのだけれど。
「うう……」
 自覚があったのか、未だに落ち込むアスカを気の毒に思い、マヤは話題を変えようとする。
「アスカちゃんは、でも、良かったわね。運命の相手と巡り会えて」
「……運命の相手?」
 まだ引きずっているのか、覇気のない声で答えてくるアスカに、マヤはシンジを目で指し示す。
「羨ましいな、って。私から見たら、アスカちゃんとシンジ君って、理想のカップルだもの」

 それはマヤの本音だった。
 最後の戦いのさなか、まじまじと見せつけられた二人の絆の強さ。
 互いに背中をかばい合いながら、阿吽の呼吸を見せて、敵を打ち倒す。
 初号機が弐号機をカバーすることもあれば、その逆に、弐号機が初号機を敵の攻撃から守ることも。
『アスカ、そっち!!』
『OK!!シンジッ!』
 もちろん、発令所から、ミサト達の指示は飛んでいた。だが、それを完璧なまでに遂行できたのは、二人が互いを常に意識し、補佐しあっていたから。
 二人が交わす言葉は少なく、短いもの。
 それでも、わかりあえていた。
 一心同体。そんな言葉が、頭をよぎる。
 苦難の果てに二人が得た、心と心を結ぶ絆。
 戦いを終えた後、彼と彼女は、動くことも出来ない程の疲労を溜めており、病院に担ぎ込まれたが、その時に。
 気絶しながらも、うわごとのように、相手の名前を繰り返し呼んでいた。
 涙腺を崩壊させたのは、マヤばかりではなかった。リツコもまた、一人になって泣いていた、そう思う。
 確かに二人は、最悪と言っていいほど、相性が悪かった時期があった。
 しかし、それを乗り越えて、手を携えることを選んだ。相手の名前を、心に刻み込んで、共に立つことを。
 二人が出会ったのは、運命。襲い来る試練が、二人の心を近付けて。
 理解しあう。わかりあう。通い合わせる。
 一つに、なる。
 マヤにとって、そんな二人の姿は。
 理想のカップルに思えたのだった。
 
「運命の相手……ねぇ……」
 言われたアスカは、しかし、首をひねりながら、遠くでバシャバシャと水を弾くシンジの姿を見やる。
「……?シンジ君に不満でもあるの?」
 彼女の態度に不審を覚え、尋ねるマヤ。何か問題があったのか、と。
「そんなことないけど、さ」
 マヤの不安を、軽く首を振って、アスカは打ち消した。
 では、何が気にかかったのだろうか?怪訝そうに見つめるマヤの視線に気付き、アスカは目を向ける。
「よく言われるのよね、それ。理想のカップルだの、運命で結ばれた二人、だの」
「別にいいんじゃないの?実際、そうじゃない」
 羨ましい、と思う。そこまで信じられる相手がいることが。
 自分には、そんな風に人を想えないと思うから。
「ん〜、何て言ったらいいのかなぁ」
 軽く空を見上げている。夕焼けの紅の光が、彼女の髪に絡んで、跳ねる。
 綺羅綺羅と。
「別に、アタシ達だけじゃないと思うのよね」
 ポツリ。そう呟いた彼女の横顔は、静かなものだった。
 問い返すことも出来ず、マヤは、じっと彼女の言葉を待つ。
 落ちる沈黙。潮騒の響きが、耳を打つ。
「アタシはシンジを好きだし、多分、一生、それは変わんないと思う」
 言葉を探しながら、なのだろう。ゆっくりとアスカは、唇から紡ぎ出す。
 彼女の、心を。
「でも……誰でも、アタシ達がいるところに、来れると思うのよね」
「……どういうこと?」
 マヤは問いかける。そうすることで、アスカが話しやすいように。
「……普通に生きていたって、きっと、誰もがそんな人に会うことがあるだろうし、アタシ達と同じように、誰かを想うことってあると思うのよ」
「この人が、運命の相手だ、って?」
「そうそう」
 どうだろうか。マヤはまだ会ったことがない。
 そして、これからも会うことがあるのだろうか。
 素直に、マヤはそのことを彼女に告げる。
「マヤは可愛いから、いつかそんな人が現れるわよ」
 アスカの言葉は、慰めでもあり、しかし、どこか確信めいた言葉でもあった。
「可愛い、は関係ないわよ」
「じゃあ言い直すわよ。マヤにも、絶対にそう胸を張って言える相手が現れる。最初は、そう思えなくても、ね」
 アタシ達を見てたらわかるでしょ?そう言って笑うアスカ。
 彼女が言うのならば、そういうものなのかもしれない。マヤは思う。
 しかし。
「それでも、やっぱり、私はアスカ達みたいな仲が、特別だと思うわ」
 普通の人は、違う。
 心と心をぶつけ合う前に、それぞれの妥協点を見つけて、落ち着いていく。
 それは欺瞞ではない。最良の方法なのだ。人と人が、共に暮らしていく上で。
「アタシ、そういう点では、自分が特別だと思ってないの」
 マヤの考えを見透かしたのか、アスカは強い口調で言った。
 驚くマヤに、向けられた視線には、どこか哀しげな光が混じっていて。
「誰だって、出来るはずなのよ。アタシ達みたいに。ただ、そうしないだけで」
 マヤにだって。そう続けるアスカに、彼女は答えられず。
 そっと目を伏せる。
「誰にだって出来るけれど、誰もしないこと。それをしたからって、特別とは限らないじゃない」
 責める風な口調ではない。ないが、しかし。
 彼女の言葉は、マヤの心に重くのしかかってくる。
 そして、琴線を震わせる。胸が、苦しい。
「それに……アタシ達が、こんな風になったのって、周りが大変な状況だからだったわけだし」
 自分達が作り出した状況だ。マヤは唇を噛む。
 少年と少女を追い込み、退路を断った。それがどういうことかも、わからずに。
「あ、マヤを責めてる訳じゃないのよ。ああでもなければ、シンジとアタシって、出会うこともなかっただろうし、ましてや、付き合うなんてこと、なかっただろうと思うの」
 落ち込む彼女の様子に気付いたのだろう、慌ててアスカが声をかけてきた。
 マヤは黙って首を振る。
 困ったように彼女を見ていたアスカは、そっとマヤの髪に手を触れ、軽く撫でる。
 心地よい。子供の時に、親に頭を撫でてもらった時のように、落ち着く。
「……ありがと、アスカちゃん」
「ん……」
 やっとのことで声を振り絞るマヤ。アスカは何とか作り出した彼女の笑顔を見て、手を離す。
 少しだけ、マヤはそのことを寂しく感じた。
 再び、茜色の空を見上げるアスカ。蒼い瞳は、赤光を浴びて、なお蒼く。
「アタシってさ……」
 しばらく続いた静けさの後に、彼女はふと口を開く。
 マヤはただ、耳を傾ける。
「特別に、特別に、って育てられたわけじゃない。エリートになるように、エヴァのパイロットに選ばれるように」
 落ち着いた言葉の端に、見え隠れする悲しみ。以前の彼女ならば、単純に、強烈な自負を見せていただろうに。
 何故か、今の言葉は、儚い。
「それはいいの。もう、言っても仕方ないことだし、アタシが望んだことだもの。これからもきっと、特別に生きてくわ、アタシは」
 呟いた言葉が、誓いの言葉に聞こえて。
 マヤは、彼女の横顔から目を離せないでいた。
 じっと、ただ、見つめる。
 優しい風が、彼女の髪をなびかせる。海の彼方を見つめるアスカの瞳に映るのは、過去の己の姿か。
「そうして選んだ道が、たまたま、人よりちょっと、厳しいものだったとは思うけれどね」
 ちょっと、どころではない。マヤは思う。
 人間の尊厳を奪われかけたのだ、アスカは。それでも、精神崩壊を起こしかけたことすらも、彼女はちょっと、だと言う。
 それが強がりなのかどうか、よくわからない。だが、そう言えるアスカのことを、強い人、と感じるマヤ。
「でも、でもね……」
 泣いている、そう思った。
 ぬぐった髪に残された海水だったのかもしれない。それとも、海と夕日の光が、澄んだ蒼の瞳に浮かべた幻か。

「アタシ、恋ぐらい、普通にしたい」

 小さな咆哮が、マヤの耳朶に響く。
 潮の匂いを運ぶ風。白い肢体に絡みつく紅色の光。触れられた髪に残る彼女のぬくもり。乾いていく唇の感触。
 きっと、忘れられない。この一瞬の全てを、一生。

「……な〜んてね」
 ペロッと舌を出しておどけて見せるアスカに、マヤは返す言葉を見つけられなかった。
 衝撃を、受けていた。
 彼女の、告白に。

 そうだ。
 当たり前のことじゃない。
 アスカはまだ、高校生でしかないんだもの。
 女の子、なのよ。
 マヤは痛感する。
 何を、見ていたのだろう、自分は。
 ありのままの彼女は。
 素顔の彼女は。
 一人の、まだ年端のいかない、少女なのに。
 どれほどの思いを、抱えていたのだろう。
 その心に。その胸に。
 周りの大人達の目に応えようとして。背伸びを続けて。
 やっと、一人の自分に戻れたのに。
 それすらも、特別だと誉めそやされる、現実。
 何が違うというのよ。彼女と、同い年との友人との間に、どれほどの差があるというの。
 悩まなかったはずはない。恋と言う、狂おしい想いに。

 運命とか。
 理想とか。
 そんなもの、押し付けられた価値観に過ぎない。
 大事なのは、自分の心なのに。

 誰からも自由であるはずの想い、その動きすら、他人に評価されるということ。
 同じじゃない。
 ただ、恋をしただけじゃない。
 だからこそ、アスカは言ったのよ。
『普通でいたい』って。

 何が普通かなんて、わからない。でも。
 言ってたじゃない。
 誰にでも、出来る恋だって。
 確かに周りから見れば、普通じゃないかもしれない。
 絆の強さだって、比べ物にならない。
 だけど。
 それは、きっと。
 ほんのちょっとの差に過ぎない。
 大切なこと、それは。

 人を、想う心。

 誰もが皆、彼らのようになれる。
 その可能性を秘めている。
 ただ、気付いていないだけ。
 だから特別に思う。二人の関係を。
 私と同じように。

 マヤの頬を、ポロポロと涙が伝った。

「ちょ、ちょっと、マヤ!?どうしたのよ」
 突然、膝に顔をうずめて泣き出したマヤに驚き、アスカは彼女の側に寄っていった。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
 嗚咽を漏らしながら、何度も謝るマヤを見て、途方に暮れるアスカ。
 やがて、そっと頭を抱き寄せて、胸にかき抱く。
 背中を軽く、あやすように叩かれながら、マヤは。
 涙が尽きるまで、ずっと、泣き続けていた。

「ごめんなさい……ありがと、アスカちゃん」
 何度目だろう、今日、彼女に救われたのは。
 これでは、どちらが年上か、わからない。
「まったくぅ……いきなり泣き出すから、びっくりしたじゃない。アタシが苛めたと思われたら、どうすんのよ」
 ぶっきらぼうに言いながら、タオルを差し出すアスカの顔は、暖かく、優しかった。
「フフッ、ホントに、ごめんなさい」
 涙の跡を拭いながら、マヤは笑って見せる。
 泣いてしまったら、少しだけ、胸の澱が落ちた。
 悲しかったのではなく、ただ、切なかったのだ。
「それにしても、アスカちゃん、胸大きいのね。羨ましいわ」
 私なんて、と自分を見て、肩をすくめて見せる。
 マヤはただ、話を変えたかっただけだった。これ以上、みっともないとこは見せられないと思ったから。
 だがその一言は、予想だにしなかった反応を引き起こす。
「そりゃあ、毎日シンジに揉まれてるから、大きくもなるわよ」
「揉……!!」
 絶句するマヤ。揉むって何を……?決まってる、アスカちゃんのおっぱいのことよね。でも、シンジ君が?アスカちゃんの胸を?何で?って聞くまでもないし……
 先ほどまでの会話で、どこか沈みがちだったマヤの心は、ほんの一言でかき乱されてしまっていた。グルグルと回る妄想に、脳がオーバーヒートしかけてしまう。
「何よ、マヤ。恋人同士なら、当然じゃない?多分一生、一緒にいることになるわけだし」
「そうだけど……」
 不潔。そう言いたい。言いたいがしかし。
 普通だ、とアスカは主張する。だけど、それを簡単に受け入れることは出来ない。
 簡単に言ってしまえる権利が、自分にはあるのだろうか?
 それでも、高校生で、一線を越えてしまうなんて……
 ああ、どうすればいいのよ……
 言葉を見失い、マヤは途方に暮れてしまっていた。
「ただいま。疲れたよ」
 二人の様子を伺っていたのだろう。泳ぎ続けていたシンジが戻ってきたことで、マヤは救われた気分になる。
「何の話をしてたの?」
「アンタにアタシのバージンをあげた、って話よ」
「アスカちゃんっ!!」
 体中が火照って、焼けてしまいそうだ。いっそこのまま炭になってしまえれば……そんなことまで頭をよぎる。
 追い詰められているマヤに気付いたのか、困ったような顔をするシンジ。
「そんなこと、人に言うもんじゃないよ、アスカ」
「いいじゃない、本当のことなんだし」
 立ち上がり、タオルを手渡しながら、アスカはあっけらかんと答える。
「それにね、すっっっっっごく、痛かったんだからね」
 呆けてしまうマヤ。口を半開きにさせたまま、言葉もなく、ただ唖然と二人を見つめるしか出来なかった。
 頬を赤く染めて黙ってしまったシンジを、悪戯っぽく見つめていたアスカの横顔が、ふと、曇った。
「でも……アンタも痛かったんだもんね」
 シンジの脇腹をそっと撫でる彼女の瞳に生まれた悲しみに、引き込まれる。
 その指先がなぞる、うっすらと残った、小さな傷跡。
 マヤはそれが、彼女が心を壊した時、シンジにナイフを刺したその跡だということを思い出す。
 何故、アスカが彼を刺したのか、その訳をマヤは知らない。それはおそらく、アスカにしかわからないのだろうと思っていたから、聞くこともしなかった。
 ただ、それが彼女達にとって、通過儀礼のようなものだったのではないか。そう考えていた。
 二人の間にあった壁を壊す一撃だった、と。
 もっとも、それはマヤの独善的な、後付の考えなのだけれど。
「平気だよ、これぐらい」
「……バカ」
 泣きそうな顔で、アスカは笑う。
 彼女の体をそっと引き寄せて、額にキスをするシンジ。
 不潔……とは思わなかった、何故か。
「ありがと……こんなアタシを、受け止めてくれて」
 マヤがいることなど、頭から飛んでしまっているのだろう。彼の胸に顔をうずめて、アスカは小さく呟く。邪魔をする気など、マヤには毛頭なかったから、ただ息を潜める。
「アスカは、アスカだよ」
 一度、ちらりとシンジはマヤの方を見た。その顔に浮かぶ笑みに、軽く目礼してから、彼はアスカの頭を抱きかかえ、そっと髪を撫でる。
 そのまま、目を閉じて、二人は動かない。
 彼らの向こうに輝く夕日。並び立ち、一つになる二人のシルエットに、マヤは見とれる。

 アスカ達は否定する。自分達が特別であることを。
 だけど、その姿を見ていたら、やっぱり。
 羨ましいと、マヤは思う。
 一般的な意味ではなくて。
 彼女個人にとって、やっぱり二人は、理想のカップルだ。

 自分は、どうなのだろうか。
 恋人と時を共にすることすら、考えられなくなっている。
 アスカは、いつか彼女にも、運命の相手が現れると断言した。
 信じられる、と思う。
 だけど……

 ふと気付くと、シンジの姿は消えており、アスカが一人、こちらを見ている。
 いつもの、活気に溢れた瞳と、にこやかな笑みを浮かべて。
「……あら?シンジ君は?」
「あいつなら着替えに行ったわよ。アタシも着替えに行くんだけど、マヤはどうするの?」
 そういえば、もうすぐ日が暮れようとしている。そろそろ、帰らなければいけない時間だ。
 考えて、マヤは迷う。今、友人達には会いたくない。何となく、なのだが。
 もう少しだけ、二人と一緒にいたかった。
「そういえば、マヤはどこに荷物置いてきたのよ?」
 沈み込む彼女に気付いたのか、声をかけてくるアスカ。彼女が答えると、
「なんだ、アタシと一緒じゃない」
 偶然ね、と笑う彼女に、少しだけ心が軽くなる。
 言い訳を考えるなんてみっともないけれど、アスカと一緒ならば、友人達と会っても平気だろう、きっと。攻められても、適当に言い逃れればいい。
 連れだって戻るマヤ。彼女の心配は杞憂に終わった。友人達の姿はなく、二人は服を持ち寄って、並んで着替える。
 喋りながら、ふと、隣を見たマヤの目に、水着を脱いだ彼女の、豊満な肉体が飛び込んでくる。
 艶かしい。女の艶、というのだろうか。一糸纏わぬ彼女の姿は、神々しいほどに美しかった。
 その美は、シンジ一人に捧げられたものなのだろうけれど。
「……?何よ、マヤ」
「えっ?う、ううん、なんでもない」
 言えるわけが無い。彼女の体に、見惚れていたなんて。
「……変なの」
 首をかしげるアスカに、マヤは慌ててしまう。
「いい子よね、シンジ君って」
 咄嗟に口をついて出てきた言葉に、アスカは改めて不審そうな顔をする。
「アスカちゃんのこと、本当に大事にしてるんだな、って。そんな風に思えたから」
「……そうなのよね」
 大きなため息に、今度はマヤが不思議に思う。
 今日は、彼女が見せたことのない顔、知ることのなかった心に触れてばかりだ。
「どうしたの?」
「うーん、アイツって、本当にいい奴じゃない?」
 問いかけに、問いかけで返すアスカ。マヤは意味がわからないままにうなずく。
「何か、さ。これでいいのかな、って思うこともあるわけよ」
 強がっている。軽く目を伏せ、椅子に座って膝を抱くアスカを見て、マヤはそう感じる。
 いつも彼女を支えている芯が、外れてしまったような。そんな印象を受けるのだ。
「……どういうことなの?」
 自分のボキャブラリーの貧弱さが、恨めしい。気のきいた言葉がかけられないのか。
「……さっきの傷のこともそうだけど」
 意を決したかのように、アスカは顔を上げて話し出す。
 遠くを見つめる目。その先にいるのは、おそらく、彼女が愛する少年。
 微かにうるんだ瞳、揺れる睫毛。
 エヴァのパイロットとしてNERVで会う彼女の姿はそこになく。
 心を露にした、少女が一人。
「アタシってさ、アイツを傷つけてばっかりだったじゃない?」
「………………」
 ぎこちない沈黙。千々に乱れる感情の向かう先を、マヤは見つけられず。
「シンジのこと、何も出来ない奴ってバカにしまくってて、その癖、自分がアイツに負けたら悔しくて、より一層バカにして」
 むき出しの想いの強さに、マヤは、聞くことしか出来ない。
 ただ、何故か感じる、背筋を伝う汗と、口腔の乾きに、鼓動が跳ね上がる。
「それで最後は、自分で勝手に壊れて。助けに来てくれたシンジを罵倒して、あげくの果てにはナイフで刺して」
 もちろん、マヤは知っている。当時の事情のことを。
 だがそれは、他者から伝え聞いただけのことに過ぎない。
 当人の口から語られて初めて、その重みを知る。
 ズシリ、肩に感じる、それは自らを恥じる心。
 では、胸の中をざわめかせる、この感情は何だろう?締め付けられる、心臓が。
「振り返ってみれば、酷いことばかりしてるのよね、アタシ。助けられてばかりだわ」
 エリートなんて言っておいて、大したことないのよね、アタシ。
 そう続けて、自嘲気味に笑うアスカ。
 似合わない。そんな顔は、あなたに。
 そして願う。言わないで欲しい。次の言葉を。
 簡単に想像できてしまう、アスカ達にふさわしくない、その言の葉を。
「こんな汚いアタシが幸せになって、いいのかなって」
 嗚呼。
 やはり、言ってしまうのか、その言葉を。
 彼女の呟きが、マヤの導火線に火を付ける。
「そんなことないっ!!」
 自分でも、驚く程の声が、マヤの口から飛び出た。それは、思いにふけっていたアスカの心を呼び戻すのに、十分だったようだ。今、彼女はマヤを見ている。目を見開かせて。
「そんなことないわよ。アスカちゃんは、幸せになっていいのよ」
 悔しかった。悲しかった。彼女が、そんな風に思うことが。
 やっと手にした大切な物を、自分の手で汚して欲しくなかった。
「ううん、幸せにならなきゃダメなの。絶対に」
 彼女の両の肩に触れる。見上げるアスカの目に映る、自分の姿。
「でも……」
 アスカが返す言葉は弱く、脆い。
「ダメよ、アスカちゃん。好きなんでしょ?シンジ君のことが」
 彼女の体を強く揺さぶりたい心を抑えつつ、マヤは溢れそうになる熱を隠して問いかける。
 コクリ。何も言わず、軽く首を縦に振るアスカ。
「だったら、信じてあげなきゃ。あなたのことを受け止めてくれた、シンジ君のことを」
 不思議な思いにかられる。こうして、彼女を励ましている自分がいることに。
 だが、そう思うことの方が、おかしいと気付く。彼女はまだ、十五歳の少女でしかないのだから。
「大丈夫よ。シンジ君は、アスカちゃんのこと、汚いなんて思ってないはずよ」
 思っているはずがあろうか。
 少年の、深い黒の瞳を思い出す。その目に、いつからか湛えられていた優しさと強さ。
 最初は、一抹の不安を覚えていたのだ、彼に。こんな幼く、不安定な少年に任せていいものかと。
 だが彼は変わった。いや、変わっていた。
 気付かぬうちに、少しずつ、少しずつ。壁にぶつかり、乗り越えて。時には逃げ出して、それでも、彼は歩み続けた。
 それは自分達大人が、強制して歩かせていた道だったけれど。
 彼の足取りは、徐々にしっかりとしたものに変わっていった。
「だって、シンジ君は、アスカちゃんのこと、ずっと見てたんだもの」
 足並みを揃えるように、並んで歩み始めた彼女。
 彼の想いは彼女に向けられ。彼女の視線は、彼に固定され。
 歩いていく。その先に、破滅という落とし穴すらあった道を。
 いつしか、追い詰めようとしていた大人たちすら、彼らに並んで歩き始めた。
 自分も、その一人。
「アスカちゃんの汚い所も全部見て、それでもアスカちゃんを選んだんでしょう?」
 思う。
 心を開くということは、自分の嫌な部分も見せることだと。
 アスカとシンジは、悪し様にののしり、反発しあいながらも、共に生きることを選んだ。
 そこまで深く、互いを知りながら、それでも相手を選んだということ。
 だからこそ、余人に計れぬ絆を得たのではないか。
「アスカちゃんだって、シンジ君の汚い所も知って、だけど、シンジ君が良かったんでしょう?」
 マヤの言葉に、深くアスカは頷く。
 ニッコリと笑ってやる。彼女が笑えるように。
 だが。
 マヤは感じていた。
 自分が語るごとに、生じる違和感を。
 誰かが、自分の心を覗き込んでいるような……そんな感覚。
「汚くたって、関係ないじゃない。これからが、大事なんだから。大丈夫。アスカちゃんとシンジ君は幸せになってもいいのよ」
 そのためになら、私達は何でもする。
 贖罪だと、偽善だと、呼ぶなら呼べ。それぐらいしか、自分達には出来ないのだから。
 言葉にはしない。
 彼らにこれ以上、形にして望むことは出来ない。そうすればきっと、二人をまた苦しめるだけだから。
 そっと、見守っていたい。気付かれなくてもいい、この想いは、とても個人的なものだから。
 一層に強くなる痛痒感を抑え、マヤは誓う。
 絶対に二人が幸せになれる世界にしてみせる。例え自分の力では、大したことが出来ないのだとしても。
「……そうね。ありがと、マヤ」
 不安を除き取られ、満面の笑みを浮かべるアスカ。
 そう。それでいい。マヤは微笑を浮かべた顔で、軽く頷く。
 弱気な所を見せてくれても構わない。だけど。
 やっぱりアスカには、笑顔が、よく似合う。

「それじゃ、今日は楽しかったわよ、マヤ」
 外で待っていたシンジと合流し、ここで別れることにした三人。
「こっちこそ。でも、ごめんね、デートの邪魔だったかな?」
 悪戯っぽく笑う。友人から逃れることで頭がいっぱいで気付かなかったが、考えてみれば、二人の楽しい時間を減らしていたのかもしれない。
「そんなことないですよ。僕も、楽しかったですし」
「そうそう、大体、デートじゃなくて、特訓だったんだからっ!!」
 穏やかに微笑むシンジの右手と、少し顔を染めて言い放つアスカの左手は、しっかりと結ばれている。
「フフフ、ありがと。それじゃ、二人とも、気を付けてね」
「はい。それじゃ」
「まったね〜、マヤ」
 軽く手を振りながら、二人を見送るマヤ。
 繋いだ手。触れ合う肩。
 そして、目には見えない、だが確かに感じられる、寄り添う心。
 幸あれ、とマヤは願う。
 だがそれは、彼女が祈るまでもないこと。
 二人はずっと、歩いていける。
 お互いのぬくもりを感じながら。

 独り残されたマヤは、ふと眺める。
 青く広がる海を。
 間近に覗き込んだ少女の瞳を、思い出させるその色。
 海。
 穏やかな海。荒れた海。綺麗な海。汚染された海。南極の血の色の海。
 水は巡る。空の水は雨となり、地の水は川となり。
 やがて海へと帰る。そして地球を青く染める。
 押し寄せる波。白い飛沫。水は透明なのに、海は青く。
 青。蒼。青。
 それは少女の瞳の色。
 青。蒼。青。
 母なる海。
 全ての生物は、ここから始まった。
 やがてここへと戻るために。
 では人間は?
 リリンから生まれし人間は、どこへと帰る?
 やはり海へと帰るのか。
 その海の色は。
 この海の青?
 それとも。
 魂を溶かすというLCLの紅?
 どちらだろう。

 蒼がいい。
 そう思う。
 紅が嫌いなわけじゃない。
 ただ青が好きなだけ。
 いつか自分が、帰る時が来るならば。
 あの少女の瞳の色の。
 蒼い海に帰りたい。
 全てのものを受け止めるこの海に。
 全ての穢れを清めてくれるこの海に。

「そっか」
 マヤは小さく呟いた。
 一筋の光明が胸に差し込む。
 溶かされていく。心が。
 先ほど感じていた違和感の正体が。
 やっと、わかった。

 恋をしなくなった自分。
 その理由は。
 自分を不潔だと思っていたから。
 汚れた穢い自分に、恋をする資格などない。
 そう思い込んでいたのだ。
 波の音が聞こえる。潮騒。洗い流してくれる、綺麗に、心の澱みを。
 恋に、憧れていた。
 いつかは、この人、と思える人に出会い。
 好きになると思っていた。
 そして、幸せになると。
 だけど。
 子供達を傷つけ。
 その手を血にまみれさせた自分には。
 不潔な自分には。
 幸せになることなど、許されない。
 そう信じ込んでしまっていた。

 だからこそ、違和感を覚えた。
 少女に向けて放った言の葉は。
 全て自分にも向けられていた。
 私の心を覗いていたのは。
 鏡に映った自分だった。
 悩む少女の姿は。
 自分でもあったのだ。
 汚くたって幸せになれる。
 幸せになることが許される。
 彼女は自らを裁き、自らの手で宣告していた。
 有罪と、執行猶予を。

 簡単なこと、だったのだ。
 少女がずっと、言い続けていたこと。
 二人は、特別じゃない。
 私も、特別じゃない。
 彼女は言った。『マヤもいつか、そういう人に巡り会えるわよ』
 いいの?
 私は、幸せになっても。
 こんなに不潔なのに。
 それでも、どこかに。
 受け入れてくれる人がいるというの?
 わからない。
 このまま一生、誰ともわかりあえず、孤独に死んでいくのかもしれない。
 だけど。
 もう、自分を縛るのはやめよう。
 幸せになっちゃいけない人間なんていない。
 たとえどんなに穢れていても。
 だから、自分を苦しめるのはやめよう。
 不潔、いいじゃない。
 絶対に洗い流すことの出来ない汚れ。
 もう遅いのだから。
 そんな自分を受け入れて、歩いていかなければならないのだから。

 恋を、しよう。
 出来ることなら、少女達のような恋を。
 心と心をぶつけあって、わかりあえる恋を。
 彼女達が望むのは、幸せな世界。
 彼女達に捧げたいのも、幸せな世界。
 それはとても難しいことだけれど。
 始めの一歩は、自分が幸せになること。
 少年と少女のために、幸せを諦めるということは。
 二人にまた、重荷を背負わせるということ。
 だから、まだ、よくわからないけれど。
 幸せになろう。
 恋をして。
 過去に捕らわれていてはいけない。
 未来へと向かわなければ。
 彼女達の求める世界のために。
 自分達から、幸せになっていこう。
 きっとそれが、彼女達の願いでもあるから。

 独善的だと思う。
 独りよがりだとも。
 彼女達は何も言っていない。幸せになっていい、とは一言も。
 だけど。
 ダメとも言っていない。
 それは言い訳に過ぎないのかもしれないけれど。
 でも、彼女達の願いは、きっと、自分が思った通りのことだから。
 言葉ではなく、彼女達の振る舞いが、そう示している。
 そしてそれは、一番難しいこと。
 罪の意識を抱えたまま、幸せになれというのは。
 捨ててはいけないのだ。不潔な自分を。
 拒否してはいけないのだ。汚れた自分を。
 ありのままに、自分のままに、生きていく。
 そして、幸せになる。
 自分のためだけではなく。
 彼女達のために。

 だからもう。
 逃げない。
 人に近づいていこう。
 恋をしよう。
 いつかきっと、こんな自分を受け止めてくれる人が現れるから。
 そして。
 幸せになろう。

 そうすればきっと。
 いつか、私は。
 蒼い海に帰ることが出来る。


「……悪かったとは思ってるわ……うん……でも、ごめん、私のことはいいから、帰ってもらっていい?」
『ちょっと、マヤ!?何言って……』
 携帯の向こう側で、友人が怒鳴っているのを最後まで聞く気にもなれず、電源を切る。
 これで友人を一人、無くしてしまったかもしれない。
 だが、それでもいい。
 今は、何だか、自分のことをよく知らない人間と一緒にいる気分ではなかったのだ。
 マヤは思い、ぼんやりと佇む。
 すでに日は落ちて、青は黒へと変わっている。
 今日は、色んなことがありすぎた。
 これまでに見たことない少女の顔。
 彼女からたくさんのことを教えられた。
 導かれたのだ、と思いたい。今の自分があるのは。
 だがそう思うと。
 急に寂しくなって、マヤは己の肩を抱く。
 友人とは顔を合わせたくなかったが、一人でいるのは少し辛い。
 勝手なものだ、と自嘲する。
「帰ろう」
 ポツリと呟いて、踵を返しかけた時。
「あれ?マヤちゃん?」
 かけられた声に、思わず振り向く。そこにいたのは。
「青葉さん?」
 彼女の同僚だった。
 職場で顔を合わせてばかりだが、こんな風に、プライベートで会うのは初めてだ。
 紺のタンクトップに、色落ちしたジーンズ、そしてビーチサンダル。
 長い髪は、後ろで結っている。
 片手に抱えているのは、サーフィンのボード。
「何やってるんですか?」
 意外な出会いに、思わず出した問い。何を間抜けなことを言ってるのか、と恥ずかしくなる。見ればわかるではないか。
「俺?友達に誘われて、サーフィン、初挑戦」
 多分、その友達なのだろう。遠くでこちらを見守っている影が四つ。
「マヤちゃんは?泳ぎに来たの?」
 聞かれて言葉に詰まる。間違いではないけれど、正解にはほど遠い。
「まあ、そんなとこです」
 結局出たのは、無難な答え。意味がないようで、しっかりとある。
 怪訝そうに見る青葉に、何となく、鞄を胸元で抱えてしまう。この癖は直したいのだけれども。
 一人で来たの?と聞かれたらどうしよう。考えながら、答えを探す。素直に言うのがいいのか、適当に誤魔化すか。
「ふーん、じゃ、さ。良かったら、俺が送っていこうか?」
 パチクリ。自分の瞼がそんな音を立てたのを聞いたような気がした。
「え?でも、そんな……友達の人に、悪いんじゃないですか?」
「あいつらはいつでも会えるし、さ。夜道を一人で帰らせるわけにもいかないっしょ」
 うかがうように見つめる青葉の瞳。真正面から面と向き合うのは、これが初めてかもしれない。
 こんな目の色をしていたことを、マヤは知らなかった。
 そこに今、宿るのは、好意の光。自分のことを思ってくれているのだ、この人は。
「クス……それじゃ、お願いしてもいいですか?」
「お、おうっ!!じゃ、ちょっと、待っててくれよなっ!!」
 言うや否や、素っ飛んで友人達の所に向かう青葉。何やら話して、戻ってくる彼の背中に、
『このナンパ男!!』
『襲うなよーっ!!』
 遠慮のない言葉がかけられる。
「じゃあ行こうか、マヤちゃん。あいつらのことは気にしないでくれ」
 早口になり、彼女の腕をつかんで歩き出す青葉。
『おおっ、大胆だなぁ』
『頑張れよっ、青葉ーっ』
 背後から聞こえる声に、マヤは思わず笑顔になる。
 そこには確かに、暖かな思いが込められていたから。

「ごめんな、マヤちゃん」
 車の前で手を離される。彼が謝っているのは、手を強引に繋いだことか、それとも友人達の遠慮のない揶揄のことか。
「いいですよ、別に」
 微笑んで答える。どちらでも、構わない、と思う。本当に、気にならなかったのだから。
 彼女が浮かべた表情に、青葉は一瞬、まじまじとマヤを見てから、慌てて顔を背ける。その頬が、少しだけ赤くなっているのが、電灯のわずかな明かりの中でも見て取れた。
「じゃ、じゃあ、行こうか」
「はい。ありがとうございます」
 車は、海沿いの道を帰る。
 彼らの住む街へと。
 他愛も無いことを喋り続ける二人。
「え?シンジ君達もいたのかい?」
「そうですよ。私も偶然、会ったんですけれど」
 偶然が、彼女にもたらしたものは大きかった。
 海に来る前の自分と、帰る自分とは、何だか全然違う人間のように感じられる。
 錯覚かもしれない。
 しかし、そう思える心が大事なのだ。
 微笑んで、空を見上げる。
「あ、綺麗」
 満天の星空。神々しく輝く月と共に、夜道を照らしている。
 ロマンチックだ。夜空を埋め尽くす星に囲まれてのドライブ。BGMは、何度も寄せくる波の音。
 考えてみれば、こうしてここにいるのも、偶然だ。
 だけど、もし、アスカ達に出会わなければきっと、自分はこうしてここにいなかっただろう。
 男と二人っきりになるなんて、不潔、だからだ。
 しかし自分は、ここにいる。
 これも変化だ。マヤはそう考えて、何だか嬉しくなった。
 隣を見ると、ちらり、と横目で返してくる青葉がいる。
 その顔は優しさと喜びに満ちていて。
 一瞬、見とれてしまう。
「……?何?」
「……!!何でもありませんっ!!」
「そ、そう?」
 答えた自分の頬は、また真っ赤になっている。だけど、この感覚は。
 恥ずかしいだけじゃなくて。胸の奥を暖めていくような。
 まるで、これは。
 恋の始まりみたいではないか。
 考えて、余計に赤くなる。青葉が運転していて良かったと思う。こんな顔を見られたら、逃げ出してしまいそうだ。
 気付かれないように、そっと盗み見る。
 今度は、何とも思わない。不思議だ。自分でも自分の思考が制御できていない。
 マヤは先の光を心の中に探そうとして、すぐに諦める。
 今は、いい。ただその光が、自分の中にもあるということがわかっただけで。
 それもまた、彼女の変化。

 この人が運命の人かどうかなんて、わからない。
 けれど、こうやって、人に近づいていきたいと思う。
 いつかまた、心に灯った光を見つけることもあるだろう。
 不潔だと、ただ拒否するのではなく。
 人の心に触れに行く。
 そうして探すのだ。
 自分の居場所を。


『潔癖症は辛いわよ』尊敬する人が言った。
 だけど、簡単には変われない。
 ……ならば、少しずつ変わっていけばいい。
 そして見つけよう。
 本当の自分の姿を。
 そして探そう。
 こんな自分を愛してくれる、運命の人を。

 きっといつか、現れる。
 こんなに汚れた自分でも。
 幸せになれると、教えてくれた人がいるのだから。

 だから。
 幸せになろう。
 必ず。







次回予告
 学園祭で、バンドを組むことになったシンジ達は、青葉が昔、ギターを弾いていたと聞き、彼の元を訪ねた。
 彼は快く引き受け、少年達が選んだ曲目を見る。その中に、一つだけ混じる異質な曲。
 学園祭当日、その曲を聞いて、青葉が感じたことは……

 歳時記之四 空気震わす、弦の音色に


<後書き>
 長かった……何でこんなに長くなったんだ。冬月編の二倍以上あるじゃないか。
 というわけで、愚痴から入りましたが、いつもお世話になっております。ガラガラ猿です。歳時記之参を書かせていただきました。潔癖症のマヤさんです。リツコさんとの絡みはありません。この世界のマヤさんもリツコさんも、そういう人ではないので。
 次回は青葉です。彼にはひどい仕打ちをしたことがあるので(拙作『君はこの世界に、何を思う』参照のこと)、優遇してあげたいのですが、影が薄いですからねぇ……
 さて、ちょっとしたクイズを。次回、アスカとシンジが歌を歌うことになりますが、私が主として取り上げる『異質な』曲とは何でしょう?ヒント一、洋楽。ヒント二、割と最近の曲。ヒント三、エヴァじゃないけれどエヴァ繋がり。さて、これでわかる人がいますかね〜?ちなみに『Fly Me To The Moon』ではありません。そちらはもう諸先輩方が素晴らしいのを書かれていて太刀打ち出来ないので、今回は別方面から攻めようかと。いや、『Fly〜』もちょっとは出すつもりなんですが。
 ということでクイズの答えがわかったという方、感想、ご要望などある方、おられましたら、メールをいただけると嬉しいです。
 それでは、また。

 ガラガラ猿 拝



いやあ、ウマイなあ。徐々に溶けていくマヤの心がとても良く伝わってきます。
リツコが言った『潔癖症は辛いわよ』って言葉の使い方も巧みですね。
思うに、人は生きていく限り何かを傷つけて生きていかなければならない原罪を背負って生きていく訳ですが、その罪を正面から認めて受け入れるのもまた贖罪の一つなのかな、と思いました。罪に縛られて自分で自分を制約して生きる事のほうが罪深いし、またもっと何かを傷つける事のような気がします。前を向いて歩いていこうとするマヤと、そしてアスカ様とシンジ君が眩しいですね(^ ^
・・・・アスカ様のお背中も眩しいッスね(・´д`・

読み終わって爽やかな気分になりました。ガラガラ猿さん、素敵な作品をありがとうございました。
ロンゲな次回、どんな作品になるのか楽しみですね〜(^ ^
それにしても異質な曲ってなんだろう?最近の洋楽でエヴァ・・・エヴァネッセンス、って名前が似てるだけかぁ。
うーん、判りませぬ・・・???

さあ、判ったぜヽ(。>∀<)ノうひょう!という方もそうでない方もガラガラ猿さんに是非ともご感想を!
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