冬に月と書いて、冬月。
 常夏のこの国に、その言葉が表す美を知る者は少ない。



やがて僕達は、年をとる
歳時記之弐 byガラガラ猿




 人の欲は深い。
 望む物のためならば、自然を作り変えることすらも、厭わないのだから。
 だがそれでもいいのではないか?
 時としてそれは、心うつ何かを作り上げるのだから。

 男が、一人。
 桜の根元に立って、花を見上げている。
 この常夏の国に生まれた、変異種。自然に生まれたのではない。人が手を加え、改良に改良を重ねて作り上げたものだ。
 この桜は、四季が存在した頃と同じように、四月の頭頃に満開になり、花びらの雨を降らす。彼はそれがどのような原理か知らなかったが、研究者達の努力と美意識には、頭が下がる思いだった。
 春夏秋冬という言葉が意味を失った今、そこまでする必要性は全くない。だがそれでも、こだわったのだ。春、出会いの季節には、桜の花が似合う、と。
 彼もまた、同感である。
 自分のような人間が少なくなっていることなど、当にわかっている。
 それは単なる懐古趣味に過ぎない。年をとった人間の感傷だろう。
(老いたな)
 彼は心の中で呟き、苦笑する。本当に、自分はもう年をとったのだ、と。
「お待たせしました」
「どうも」
 かけられた声に、彼は振り向いた。
 黒髪の少年。いつか淡い想いを寄せた女性の息子であり、初めて会った時は、生き写しのような顔に驚いたものだった。父に似ずに良かった、とも思ったが。
 だが彼は、重ねられた年月の中で、随分と成長していた。女性のような顔立ちからは、弱々しさが幾分失われ、瞳に宿る力は、彼が一人の男として成熟してきていることを表している。
 金髪の少女。彼の古い、そして優秀な教え子の娘。勝気な瞳と言動、そして若さと強さが溢れる肢体。初対面の印象は、礼儀知らず。
 しかし彼女も、いつしか少年と惹かれあい、寄り添って生きることを学んだことで、カドが取れ始めていた。柔らかに微笑むその顔から、以前の強気一辺倒な頃は想像できない。
「いや、私も、ついさっき来たばかりだよ」
 やんわりと笑って、冬月コウゾウはうなずいた。

「老人のわがままに付き合ってもらって悪いね」
 冬月が言うと、二人は笑って首を振った。
「気にしないで下さい。副司令には、随分とお世話になってますから」
「そうですよ。アタシ達にできることがあれば、何でもおっしゃって下さい」
 二人の言葉に、彼は目を細める。シンジの言葉は予想出来たが、アスカが流暢な口調で、敬語を使って話すのには驚いていた。
 シンジと過ごした時間が、どれほど彼女を変えたのか。その実例を見た気分だった。
「少し、歩かんかね。何、ちょっと回るだけだ」
『はい』
 声が重なる。冬月は軽く笑うと、遊歩道を歩き出す。シンジとアスカは、その両隣に並んで歩き始める。
「さっきの花、桜ですよね?」
 口を開いたのは、意外にもアスカだった。冬月は彼女の方を見ながら、
「ほう。知っていたのかね」
「一応、植物辞典で見たことがあります」
「すごいや、アスカ。日本にずっといた僕も、名前を聞かなきゃわからなかったのに」
 シンジの素直な賞賛に、アスカは顔を軽く染めてうつむく。
「あ、アンタは物を知らなさすぎよ。日本の美といえば桜、ってのが常識でしょ」
「へぇ、そうなんだ」
「まったく……」
 口では悪態をついているが、アスカが本気でないことは、冬月にもわかっている。だからこそ、微笑ましい。
「そうですよね?副司令」
「ん?ああ、まあ確かにな。だが、四季が無くなってからは、桜の花など見たことがないから、シンジ君が知らなくても仕方がなかろう」
 苦笑しつつアスカをなだめる冬月。自分を挟んで喧嘩などされては、たまったものではない。
 もっとも本気ではなく、じゃれあいのようなものであることは、わかっていたけれど。
「ダメですッ!シンジはもっと勉強すべきよ。高校だって、ギリギリで合格したんだし。やればできるのに、やらないんだから……」
「だってしょうがないだろ。ただでさえ家事で忙しい上に、NERVで訓練もしてたんだから。勉強する時間なんてなかったんだよ」
「だからアタシが協力してあげたじゃない」
「まあまあ、二人とも、それぐらいにしておきなさい」
 冬月の言葉に、二人は一瞬にらみあった後、プイと顔をそらしてしまう。仲の良いことだ、と心の中で一人ごちる冬月。
 だが、救われる。
「二人とも、第一高校だったかな」
「あ、はい、そうです」
「え、はい、そうです」
 期せずして重なる二つの声。そして再び見詰め合う二人。
「ハッハッハ、そうしていると、まるでユニゾンをしている頃のようだな」
『か、からかわないで下さい』
 言った後に、また声を合わせたことに気が付いて、シンジもアスカも顔を赤らめる。
「からかうつもりなど、ありはせんよ。それよりも、これは私からの入学祝だ」
 肩にかけていた鞄から、二つの包装された箱を取り出し、一つずつ渡す。
「そんな、副司令にこんなことまで」
「気にせんでくれ。大したものではないからな」
 言って、彼は二人に、箱を開けるよう促す。頭を深く下げてから、シンジ達は包装を丁寧にはがして、中を見る。
「きれい……」
 アスカが、ほう、と漏らす。シンジもまた、彼のものとなったそれに、目を奪われていた。
「私は古い人間でね。もう君たちには必要のないものだとはわかっているんだが、老人の懐古趣味だと思って、受け取ってくれんかね?」
「そんな、必要ないなんてことありませんよ」
「そうですよ。ありがとうございます」
 二人は深く頭を下げた。
 箱の中身は、万年筆。電子化が進んだこの時代、授業もパソコンを用いて行っているというのに。
 冬月としても、散々迷った結果だった。実際に使われることはないかもしれないが、それでもいい。
 彼らに、お祝いを渡すこと。それが大事だったのだから。
「シンジのも見せてよ」
「うん。アスカのも……って、あ」
 シンジの万年筆は、深い黒。握りに、金色の鶴が飛び立つ瞬間が描かれている。
 アスカのものは、落ち着いた紅色。全体に、金で描かれた桜と、その花びらが舞い散っている。
「すごい……日本の美ね」
 彼女はシンジのものと、自分のものを並べてみる。造りは同じなのに、こうも印象が違うものか。
「これは?」
「蒔絵というものだよ。日本に古くから伝わる伝統芸能の一つでね、漆塗りのものに、金粉などを用いて、絵を描くというものだ」
 シンジの問いに、答えを返す冬月の口調は、大学で教鞭を振るっていた頃のそれに戻っていた。
 感心の声をあげて、再び手元の万年筆を見る。
「使ってくれ、とは言わん。必要もないことだろうしな。手元に置いておいてくれるかね?」
『もちろんですよ』
 また重なる二人の声を、冬月は心地よさそうに聞いたのだった。

 昔話を語らいながら、三人はゆっくりと公園を回る。
 そこには、今は失われた日本の四季があった。
 鳥の囀り。咲き乱れる華。流れる川のせせらぎ。
 二人の視線はあちこちに飛び、冬月に教えを乞う。一つ一つ、丁寧に説明する冬月。
 その姿は、生徒を引き連れた教師のようでもあり、また、孫をあやす老人のようでもあった。
 それほど広くないこともあり、ゆっくりと歩いたにも関らず、一時間ほどで元の桜の木の前に戻る。
「それでは、頼めるかね?」
「はい」
「こっちこそ、お願いします」
 彼らの答えに目を細めて、冬月は準備を始める。
 画板の上に麻紙を広げ、鉛筆を用意する。絵の具はまだ作らない。
 彼の隠された趣味、それは日本画を描くこと。
 二人の高校入学に合わせて、絵に残しておきたい。
 そう、頼み込んだのだった。
 折りたたみの椅子に座る彼は、最後にベレー帽を取り出して被った。
「お似合いですよ」
 アスカの、少しからかい混じりの言葉に、頬を染める冬月。
「世辞はいいよ」
 年甲斐もない、そう思う彼だったが、二人の目は暖かく、自然と笑みがこぼれていくのだった。
「さて……それでは、始めようか」
 今日、二人を招いた、その理由。
 二人は、それぞれ高校の制服に身を包んでいる。
 シンジは、半そでのカッターシャツに、黒の長ズボン。中学の頃とほとんど変わっていない。ただ、少し背が伸びたようだ。体つきも、少し、がっちりとしてきたようだ。
 少年から、青年への変化が始まっているのだろう。よくみれば、少しだけ髭が生え始めている。幸い、容姿に父親の血はそれほど継いでいないらしく、かなり薄いものだが。
 アスカは、セーラー服。白いブラウス、胸元に落ち着いたえんじのリボン。袖にも三本のライン。紺のブリーツスカートから伸びる足は、すらりと細く、長い。
 彼女もまた、成熟の途上にあるのだろう。身長は、隣の少年を追いかけて、まだまだ伸びそうだし、それに合わせるように、体もまだ、発達を続けている。同世代の少女達に比べて、十二分に女らしいのだけれど。
「副司令が絵を描かれるなんて、知らなかったです、僕」
「古い趣味だったのだよ。もっとも、随分と久しぶりなのだがね。絵筆を持つのも」
 二人は、桜の木の前のベンチに、並んで腰掛けている。冬月はまず、下書きに取り掛かった。
 サッサと、輪郭を軽くとり、構図を考える。
 ふと見ると、二人は黙って、こちらをじっと見ていた。真剣な面持ちの冬月に、声をかけづらかったのだろう。
 彼は苦笑して、
「私に気を使わんでくれていいよ。好きに話しておいてくれたまえ」
「いいんですか?」
「ああ、構わん。楽にしててくれ」
 自然体の、彼らを描きたかったのだから。
 言われて、二人はほっと、肩の力を抜く。
 最初は、それでもぎこちなく、互いに話しかけていたが、すぐに笑顔で、これから始まる高校生活のことを話し始める。
「それにしても、シンジ君も、随分と男らしくなったものだな」
「……そうですか?僕には、よくわからないんですけれど」
 冬月も、時折、話に加わる。もちろんその間も、手を動かすのは止めない。
「ああ。その分だと、アスカ君の気苦労も増えそうだな」
「そうなんですよっ!さっすが副司令、よくわかってらっしゃいますわね」
「……どうしてそうなるのさ?」
 勢い込んでうなずくアスカに、シンジはきょとんとした顔で尋ねる。
 思わず、呆れたように彼を見てしまう冬月とアスカ。
「……本当に大変だな……」
「……いいんです、もう……」
 憐憫を込めた冬月の言葉に、アスカは、諦観とどこか悟った声で答える。それでも、疲労がにじみ出ているのだけれど。
 二人を見つめるシンジの目には、疑問符が浮いている。大きくため息をつく彼女。
「アスカ君も、随分と綺麗になったものだな」
 話を変える必要を感じて、冬月はアスカの容姿を褒めた。
 実際、日本人離れをしたスタイルの良さを誇っている彼女。モデルと言うよりは、その体型は、グラビアアイドルのそれだ。思春期の男子には、まぶしすぎるだろう。
 それに加えて、以前は溢れんばかりに発散されていた気の強さが、影をひそめている。険がとれ、丸くなった。性格に難あり、という評価は、もうあてはまらない。
 もっともそれは、隣にシンジがいるからなのかもしれないが。
「シンジ君は心配にならんのかね?アスカ君、もてそうじゃないか」
「そうですね。卒業式の時も、大変でしたし」
 あっけらかんと言うシンジとは対照的に、不機嫌そうに顔を膨らませるアスカ。
 彼女が、告白をされたりして大変だったであろうことは、冬月には容易に想像がついた。
「高校に入ったら、もっともてるだろうな」
 別に煽るつもりはなかったが、余りにアスカが不憫で、冬月は苦笑を交えて、彼に言う。
「そうでしょうね」
 が、シンジに、こたえた様子はない。ただ微笑を浮かべて、認めるばかり。
「……アンタはそれでいいわけ?」
 小さく呟くアスカ。その拳が、軽く震えていることに、冬月は気付いていた。
 以前なら、問答無用に実力行使されていたことだろう。そうしないのは、彼女が成長したからか、それとも冬月がこの場にいるからか。
 後者はない、と冬月は踏む。昔の、日本に来たばかりの彼女ならば、誰の前であろうと、シンジをバカにし、殴る蹴るしていたのだから。そうしなくなったのも、成長と言えば成長であろう。
「うーん、でもさ」
「……何よ」
 少し険悪な雰囲気が漂ってきていることを、冬月は感じていた。手を休め、次の彼の言葉を待つ。それ次第では、絵を描くどころではなくなるかもしれない。
「僕はアスカのこと、手放すつもりはないし。アスカも僕と、離れたくないでしょ?」
 意表をつく台詞に、唖然とするアスカ。
「な、な、何、言ってんのよっ!!バカシンジ!」
 次の瞬間には、頬を紅潮させて、シンジに殴りかかっている。もっとも、顔はゆるんでいるし、殴るといっても、さして力はこもっていない。殴られている側のシンジが、避けながらも笑顔なのが、その証拠だ。
 冬月は、大声を上げて笑ってしまう。彼がそこまで言うのは意外だったが、逆に納得もいったのだ。
 二人の間には、確かに信頼関係がある。太く、強い絆。
「まったく!!調子に乗ってるんじゃないわよっ!アンタ程度の男、いっぱいいるんだからね!?」
「じゃあ、アスカ、僕を捨てるつもりなの?」
 捨てられた子犬のような目になるシンジだが、アスカは慌てず、
「バカねぇ。アンタがアタシにふさわしい男になるよう、努力を続けるなら、捨てないでいたげるわよ」
「そっか……そうだよね。うん、僕、頑張るよ」
 途端にシンジは、喜色満面、顔を輝かせる。少し意地悪な目をして、アスカは釘をさす。
「ま、せいぜい油断しないことね、バカシンジ」
 微笑合う二人の姿を見て、目を細めていた冬月は、
「ああ、すまん、ちょっとトイレに行ってくる。少し、待っててくれんかね」
 立ち上がって、近くの建物へと向かう。
 ちらり、と振り返り、横目で見ると、シンジの胸に顔をうずめているアスカがいた。
 彼女の顎を指ですくうようにとって、上を向けさせ、唇を近づけるシンジ。うっとりと目を閉じているアスカ。
 冬月は、前を見て、トイレに入る。
 その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

 下書きを終え、絵筆を手に取る冬月。その眼差しは真剣なものになり、アスカとシンジに声をかけることもなくなった。
 墨をすり、細心の注意を払って線を選び、徐々に浮き上がっていく輪郭を、時折、目を離して確かめては、また筆を走らせる。
 彼がそこに描こうとするのは、二人の間に流れる、淡く穏やかな空気。
 ふと、思う。
 己の為してきた罪業を。
 本来ならば、彼は、断罪されて然るべき人間であった。
 彼ら少年少女を、戦いの場に引きずり出し、自らの欲望をかなえるための道具として、用いようとしていたのだから。
 想いは、しかし、断たれた。
 いや、正確に言うならば、断ち切ったのだ。彼自身の手で。
 執念に憑かれていた彼の心を、不意に、正気に戻したのは、少年達の生きようとする姿勢だった。
 冬月たちが用意したシナリオ。
 運命と言う言葉で、飾られた道。
 少年達は、抗った。道具ではなく、意思ある人間として。
 大人たちが彼らを追い込み、選択肢を奪っても、なお、彼らは、自分達の手で、世界を掴み取ろうとした。
 身を寄せ合い、支えあいながら、大いなる流れに逆らい、留まろうとする彼らの姿は、徐々に、周囲の人間を変えていった。
 冬月も、その一人。
 気付いたのだ。
 自らの愚かさに。
 そして彼は、定められた世界を迎えることを拒否し、新たな世界を模索し始めた。
 ゼーレに歯向かい、サーと・インパクトの阻止に全力を注いだ。
 そして、人類補完計画が、失敗に終わった時。
 彼の心に去来したのは、安堵であった。
 まだ、生きている。一人の人間として。
 澱んで、色を失っていた彼の世界は、唐突に色づき始めた。
 初めて目を見開いた子供のように。
 自分を囲む世界が、これほどまでに素晴らしいものだった、ということを、彼は改めて認識する。
 忘れていた感覚が、蘇る。
 美に触れ、心震わせること。
 山々を歩き、色づく紅葉を眺め、ちょろちょろと流れる小川の音に耳を傾け、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
 いつか、彼がほのかに想いを寄せた女性が、愛した空間と時間。
 彼自身にとっても、大切だったものたち。
 それを、穴倉にこもることで、彼は記憶の彼方に閉じ込めてしまっていた。
 思い出す、自分という人間。
 純粋に学問に励み、美しいものを愛で、自然に触れることを、何よりも快楽としていた。
 濁流に飲み込まれ、見失っていたのだろう。
 冬月は思う。
 道を踏み外していた頃の自分は、確かに、冬月コウゾウであったけれど。
 大切な何かを、どこかに置き忘れていた、ただの人型でしかなかったのだろう、と。

 だからといって、許されるわけではないけれど。

 一筆、一筆。
 想いを込めて、描く。
 取り戻すことが出来たのは。
 憑き物を落とし、彼を正してくれたのは。
 目の前で、缶の紅茶を飲みながら、談笑する二人。
 彼らはただの少年と少女だった。弱く、幼かった。
 だが彼らは、純粋だった。過ぎるがほどに、純粋であった。
 それ故に傷つき、うちのめされ、倒れた。
 一人であれば、立ち直ることなど、出来なかったのだろう。
 しかし彼らは、心をぶつけあい、互いに互いを壊そうとし、存在を拒絶しながら、それを越えて求め合った。
 目の当たりにした、自分達が失ってしまっていた強い想い。
 何時からか傷つくことを恐れ、自らに言い訳をしながら、他人との距離を測りつつ、生きてきた。
 自身の心を傷つけないために。
 彼らもまた、そうであったのだろう。
 少年は人に触れるのを避けていたし、少女は他人を傷つけることが存在証明だと思っていた。二人にあったのは、確かにエゴであり、他者を踏み込ませない絶対的な領域の中で、保身のために身を小さくしていた。
 先に殻を破ったのは、どちらだったのだろう。
 彼は、追い詰められていたとはいえ、己の心をさらけだし、ぶつかった。
 彼女は、彼を傷つけながら、返す刃で自分を突き刺し、血にまみれた心で、声にならない救いを叫んでいた。
 人と、人。二人いれば、傷つけあう。だから人は、互いの距離を探る。
 ゼーレの、そして冬月たちが望んだ人の補完は、心を一つにし、その距離を埋めること。
 そうでなければ、人は永遠に、わかりあえないと思っていたから。
 だが。
 シンジとアスカは、そうではないことを証明してみせた。
 傷つけあうことを怖れていては、相手を理解することなど、出来ないのだということを。
 それを乗り越えてこそ、確かな絆が生まれ、支えあうことが出来るのだということを。
 人は、一つにならずとも、他人の存在によって、希望を持てる。
 冬月は、彼らの姿から、悟った。自分達に何が足りなかったのか。
 傷つけられることを怖れず。傷つけても立ち止まらず。
 近づき、互いの全てを見せ合うこと。
 絶望など、人類にはまだ、早すぎたのだ。
 二人の関係が、教えてくれた。
 自分もまだ、諦めることなどないのだ、ということを。

 そしてまだ、自分にも出来ることがあるということを。

 一筆、一筆。さらに、一筆。
 力強く、彼は描く。少しずつ色づいていく。
 冬月にとって、久しぶりに描く絵。
 その再開にあたり、一番最初に描くのは、シンジとアスカにしたい、と願っていたのだった。
 なぜなら彼らこそが、新しい旅立ちの門出にふさわしかったから。
 この一年、彼は過去の清算のために、駆けずり回っていた。
 時間はいくらあっても足りず、片付けねばならぬ仕事は山のようにある上に、次から次へと生まれた。
 それが一段落したのが、つい最近であり、ほとんど会う時間もなかったシンジとアスカは、高校受験を終えていた。
 アスカはドイツの大学を卒業しているために、高校に入学する必要はない。またシンジも、NERVの権力を用いれば、望みの高校に入ることなど容易いことであった。
 だが二人はそれを良しとせず、自分達の実力で入ることにこだわった。冬月達も、そのことを知っていたから、口出しをすることはなかった。
 二人の姿勢を冬月は、とても清々しいものだと思う。彼らは、命をかけて戦い、それに見合うだけのものを享受することを、要求出来たのに。
 もちろん一つには、NERVの世話になどなりたくなかった、という点があるかもしれない。それだけのことを、してきたという自覚はある。
 責任から、逃れるつもりはなかった。
 彼に残されているのは、贖罪のみ。
 ただ、ひたすらに働いてきたのも、少年達が、幸せに暮らしていける世界を築くため。それだけである。
 自分達が奪った、彼らの時間。
 返すことなど、出来ようはずもないが。
 償いたい、そう願う。

 ただそれだけなのだから。冬月に出来ることは。

 出来上がった絵を、しばし、眺める。
 華麗に咲き誇る桜の花。その木の下で、穏やかに微笑みあい、語らうシンジとアスカ。
 うまく描くことなど、考えていなかった。
 ただ、刻みたかったのだ。
 二人の姿を。そして、彼らの絆を。
 絵に残して。
 これは、誓いであり、また出発点でもあった。
 自分に残された時間は、多いわけではない。
 だが、それを理由に、安寧に逃げることは許されない。
 少年達は笑い、許してくれているけれども。
 だからといって、全てをなかったことになど、出来ないのだから。
 彼は、一人の男の欲望に、自分の欲望をのせて、立っていた。止めることも出来たであろう、男の欲望を。
 だからこそ、罪深い。
 心が、痛む。彼がいなければ、少年達は、苦しみにのたうつこともなかったのだから。
 頭を、下げたことがある。
 悔いても仕方ないことと、知りながら。
『それでも僕達は、こんなことがない限り、出会うこともなかったんですから』
 シンジの、いつか想いを寄せた女性の面影を残す少年の、口から出た言葉は、優しく、だがそれ故に、心を切り裂く。
『そうそう!でなければ、バカシンジがアタシみたいな美少女と付き合うことなんて、なかったでしょうね〜!!』
 アスカがシンジに向かって、笑いながら言った。その言葉は、少年に向けられているようで、その実、冬月に向けられていた。
 気遣うことはない、と。
 戦いの中だったからこそ、心を通わせあうことが出来た。だから、全てが罪であったわけではない、と。
 それが彼らの本心なのかどうか。わからない。
 しかし、優しさは感じる。思いやってくれるのか。これほどの咎人を。
 救われることなど、あろうはずがなかった。
 彼らの暖かい心は、余計に冬月の心をしめつけただけ。
 思うのだ。
 彼らを見ていると、もし、何もなくても。策謀もなく、普通に暮らしていても、彼らはきっと出会い、想いを寄せ合ったのではないか、と。
 運命。使い古されて、手垢がついた言葉。
 だがそれだけ、二人の絆は強く、惹かれあっているように見える。
 碇シンジという少年の存在。惣流=アスカ=ラングレーという少女の存在。
 欠けた部分を持っていて、二人が一つになることで、補い合い、安定するのではないか。
 おそらく、彼らは探し求めたことだろう。自分の片割れを。
 平和な世界に、生まれていたとしても。
 そう。
 エヴァなど介さなくても。
 それは、夢想にすぎないことだけれど。
 冬月は、何故か確信するのだった。
 シンジとアスカ。二人は幾千幾万の転生を繰り返し、異なる世界に生まれようとも。
 必ず巡り合い、惹かれ合うであろうことを。
 彼は、心を痛めながら、それでも誓う。
 異常であった二人の世界、これからは。
 平和で、穏やかなものにすることを。

 残されたもののほとんどない、彼ではあったが、それでも、全てをかけるつもりだ。

「出来上がったよ」
 最後に一筆。
 入れて、彼は二人に言った。すぐさまに立ち上がって、覗き込みにくるシンジとアスカ。
「すごい……」
「綺麗……」
 息を飲む、その様子を満足そうに見る冬月。
「これがシンジ?副司令、少し美化しすぎですよ」
「ひどいよ、アスカ」
 情けない顔をしながら、抗議するシンジ。
「ありのままを描いたつもりだよ。シンジ君も、アスカ君もね」
 出来は関係ない。ただ、彼らが褒めてくれたことは、純粋に嬉しい。
 風に揺れ、はらはら舞う桜。若い木に息づく蕾。芽生えようとしている若葉。少年の黒曜石のような瞳。少女の髪は光を受け、燦燦と輝いていて。
 彼の魂を込めた筆の運びは、確かに美となって現れていた。
 切り取られた一瞬は、永遠へと変わる。
「君達がよければ、これも贈らせてもらおう」
「いいんですか?」
 シンジの目に浮かぶ戸惑いに、冬月は笑顔を返す。
「ああ。その方がいい」
 そのために描いたのだから。
 感謝は、言葉にしつくせない。
 感激は、表しきれない。
 だから、描いた。
 溢れんばかりの想いを、託して。

 それもまた、心を伝える、一つの手段。

 冬月は立ち上がって、背筋を伸ばす。随分と時間がかかってしまった。
 遠くに日が沈もうとしている。
 空を焼く紅。絵から目を離し、黙って見つめる三人。
「君たちのおかげだよ」
 ぽつり。冬月の唇を割って溢れた言葉。
「僕達は何もしてませんよ」
 答えるのは、シンジ。
「アタシ達だけじゃ、何も出来ませんでしたから」
 続く、アスカ。
「……いや、君たちのおかげだ」
 冬月は、強く、言う。
 彼らが何と言おうと、それは確かな事実なのだから。
 再び、西の空、夕焼けの太陽に目をやる。
 何と、美しくも儚き世界よ。
 冬月は心の中で呟く。
 いつかは落日を、人類に重ねて見ていた。
 今は、明日が来ることを信じられる。
 自分の両脇に立つ、少年と少女。
 彼らがいたからこそ、そう思える。
 だからこそ、彼は生きようとする。
 守るために。
 引き継ぐために。
 そして、いつか、二人の間に生まれるであろう、新しい命に。
 この世界を、残すために。

 太陽が沈めば、月が上る。人々を見守るために。
 夜の世界の守護者。
 彼の姓に、刻まれた一文字。
 いつか、彼もまた、落ちる時が来るだろう。
 だがそれまでは。
 照らし続けよう。
 彼らの前に広がる、闇の中の道を。

 いつかまた、日は上るのだから。


 時が経ち。
 姓を変えた少女と、共に暮らす少年。
 寄り添う二人の、暮らす家に。
 その絵は、飾られていて。
 来る人の目を引き、嘆息させていた。

 桜の木の下で、並んで座る二人。
 この家の主である、シンジとアスカ。
 まだ幼さを残す彼らが描かれていて。
 彼の左手と、彼女の右手は。
 しっかりと。
 繋がれている。
 見るものにも伝わる、二人の想い。
 そして、この絵を描いた者の。
 彼らに対する、情の深さ。
 一流の絵ではないのかもしれないけれど。
 決して、高い値がつくわけではないだろうけれど。
 二人にとって、この絵は。
 かけがいのない宝物であった。



次回予告
 高校最初の夏休み。海へと繰り出すシンジとアスカ。
 そこで彼らは、友人に誘われて来ていたマヤと出くわす。
 深く結ばれた二人の姿を見て、彼女が思うことは……

 歳時記之参 潮騒の響き、とめどなく



<後書き>
 ドラえぽん様から、冬月を描くのが上手と褒められて、有頂天になっているガラガラ猿です。目指せ、冬月マスター。
 この作品は、ドラえぽん様との秘密の(笑)メールのやり取りに、多分の影響を与えられています。ということで、謹んでドラえぽん様に捧げさせていただきます。感謝の意を込めて。
 次回はマヤ。潔癖症の彼女を書くのは、初めてですね。
 感想、ご希望のメール、いただけると小躍りしてしまいます。よろしくお願い致します。
 
 ガラガラ猿 拝


シンジ君に誉められて照れるアスカ様が可愛いッス。ユニゾンで照れる所もイイ(・´д`・
というわけで、ガラガラ猿さん連載投稿第弐弾ありがとうございます!

>「僕はアスカのこと、手放すつもりはないし。アスカも僕と、離れたくないでしょ?」
うまいなあ。にぶいのに唐突にこういう事いいそうなんですよね、シンジ君って。その後の二人のやりとりも良いッスね〜。おもわず一人でニヤニヤしてしまいました(笑

それにしても、冬月の独白は身に摘まされます。大事な何かを置き忘れてしまうと、とたんに世界が色あせてしまう。そして足元にあるものも見えなくなってしまうんですよね。自分の中にある大事なモノを無くさないように生きていきたいものです。

冬月の一筆一筆が足りない心のピースを埋めていく作業のように感じられました。うーむ、流石冬月マスター。すばらしい作品だと思います。感動しました。
美しい世界に、そして二人の未来に幸アレ!(T T)/

ガラガラ猿さんにはまだまだ投稿掲示板へも作品を頂いております。こちらも要チェックです。

さあ、質の高い作品を次々と生み出してくれるガラガラ猿さんに是非ともご感想を!あなたの感想が素晴らしい作品を生む素になるかもしれませんよ(ニヤリ
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