願い事を一つ、口にして。
 アタシが、かなえてあげる。



我が衣手は、雪に濡れつつ
歳時記之壱 byガラガラ猿




 ゆっくりと歩を進める彼女は、後ろを振り向くことをしない。
 そこに彼がいなくなることなど、思いもせぬまま。
 バサッ
 街路樹から雪が落ちて、小山を作る。しかし彼女も、そしてその後ろ十歩ほどのところを歩く彼も、足を止めることなく、ただ歩み続ける。
 二人の背後に続く足跡は長く。
 ただでさえ人通りの少ない通り。今朝まで降っていた雪も今はやみ、だが空は薄墨色の雲のカーテンに覆われて。ややもすれば、再び降り始めるやもしれぬ中、外を出歩こうとする人は少なく、二人はここに至るまでに、わずかに四人ばかりの人影と、二つの猫影しか見ていない。
 八つの目は、一人の東洋人の少年と、一人の少しだけ東洋系の少女の組み合わせに好奇の色を向けつつも、持ち主はこれといって何をするでもない。ただ、少し離れて歩く二人が何故かカップルに見えたことに首をかしげるばかり。
 少女をわずかに知る人が見れば、今の彼女の有様は、十年に一度の珍事のように見えたことだろう。あの、惣流=アスカ=ラングレーが肩を落として歩いているのだから。よく知る人が見れば、そこまで騒ぐほどのことでもないさ、五年に一度はそういう日だってあるよ、と言うことだろう。
 だがそれは、彼女のドイツ時代しか知らない人の述べることであり、この一年、日本に赴いた彼女を知る人間ならば、滅多になくともまあありがちなことだ、と言い放ち、彼らを驚かせることだろう。
 あのアスカが?誰にも弱みを見せず、十三歳で大学を卒業し、エヴァのパイロットに選ばれた完全無欠のエリート、惣流=アスカ=ラングレーが、人前で落ち込むことがあるのか?と。
 彼女の後ろを歩く少年は、そんな少女のことを、世界で最も良く知る人間であろう。少しでも機密事項に触れうる人間が見れば、彼がエヴァンゲリオンのパイロット、サード・チルドレンの碇シンジであることがわかったはず。
 彼の少女を見る目は、この雪降り積もる冬のドイツにおいても、日本と変わらない。下手な例えをするならば、厚手のコート。暖かく、包み込むような。
 二人は黙々と歩き続ける。彼はただ、少女の後を追い、ゆっくりと歩き続けるだけ。つかず、離れず。ほのかに吐く白い息を、ぼんやりと眺めているばかり。冬という季節を初めて見た少年、楽しいらしい。
 やがて少女は立ち止まる。少年もまた、それまでの距離を保って、その場にとどまる。
 彼女は軽く身震いをした。カシミアのコートにマフラー。久しぶりに着る防寒具だが、それでもなお凍り付くような空気は、体のあちこちに突き刺さってくる。
 少年は何も語らず、近づかず。

 ふと彼女は、自分がこうしてここにいる理由を考える。
 ドイツ支部に招かれたのはアスカ一人。理由はあれこれとあったが、聡明な少女はそれらが全てフェイクである、と見抜いていた。おそらく彼らは、エヴァとそれを駆る自分を、手元に置いておきたいのだろう。全ての戦いを終えた今、人は新たな世界の構築に躍起になっている。政治的駆け引きのために、力は必要。ただでさえエヴァが三機も揃っている本部に対して、せめてわずかなりとも発言力を得るために、少女の存在を必要としている。
 最初は突っぱねていた彼女も、最終的には根負けし、母国の地を踏むことになった。
 何故、そこまで日本に拘るのか?
 支部長とのホットラインによる会談でそう問われた時、答えられなかったことも、原因の一つだった。
 背中に視線を感じる。おそらく、少年のものだろう。だが彼女は振り向かない。振り向くことが出来ない。
 日本に拘る理由。そんなのはわかりきっている。少なくとも、彼女自身は。
 それは、後ろに立つ少年の存在があるからだ。碇シンジという少年。
 戦いの中に生まれる恋なんて、ありきたりすぎる。映画や小説の中でさえ、使い古された言い回し。
 だがアスカの心を縛っているのは、まさしくその、恋、という言葉だった。
 惹かれている自分に気が付いた時、彼女は言い知れぬ恐怖を感じた。
 それは、彼女がそれまでに築き上げてきたもの全てを破壊するものだったから。短いとはいえ、少女がこれまでに刻んできた時は、あまりに濃密なものだった。彼女が倒れずに来れたのは、ただひとえに高きプライド故。
 そのプライドの根源となるのが、自分は一人でも生きられる、という確信だった。
 このドイツの地に同世代の友人がいない彼女だが、新聞やテレビに目を通しているうちに、自分と同い年で子供を生む少女達がいることは知っていた。
 彼女は、そんな心幼き同年代を侮蔑していた。一体、何を考えているのか、と。
 恋や愛という言葉を知らないわけではない。だがひと時の感情に流されて、過ちを犯し、人生を棒に振るような、そんな人間が理解できなかった。
 いつしかその思いが彼女を変えた。
 自分は結婚しないし、子供なんて絶対に欲しくない。
 彼女はそう公言して止まなかった。幾許かの大人、特に女性が、少女の気持ちを変えようとしたが、頑として聞くことを拒んだ。それすらも彼女は、他人が自分の人生に干渉している、というように捉え、激しく攻め立てた。
 だが一向にやむことのない忠告に、少女は疲れ、やがて恋をしている振りをし始めるようになった。それは、書物による知識を基にして作り上げた、いびつな恋。相手は誰でも良かったが、せめて自分に釣り合うだけの人間であって欲しかった。選ばれたのが、彼女のガードを勤めていた男、加持リョウジ。
 本気ではなかったし、本気になるつもりもなかった。だからこそ、アスカはそれを楽しんでいた。それまでは、人から与えられた課題を淡々とこなすだけの毎日だったが、自分の意思だけで為すことの出来るこれは、純粋な娯楽であった。
 気軽な娯楽であったから、彼女の心の一部は、いつも冷めたものだった。あえて言うなら、いつもと違う自分を楽しんでいる感覚。
 成熟した女性がなす行為のことは知識として得ていたし、それが快楽であるとも本に書かれていたから、興味本位で抱かれることを望んだりもした。子供扱いされることに対して、反発したからなのかもしれないが。
 結局は、ゲーム。自分と自分以外という世界において繰り広げる、先の見えない遊び。
 周囲の口を封じるために始めたそれは、思った以上には楽しいものであったから、彼女はフリを続けていた。ただ、人の心で遊んでいるという自責を感じてもいたため、男がそれを望むなら、相手になってやってもいい。そんな風にも考えていた。リスクは、どんな遊びにも付き物だ。
 だからこそ。
 己のうちに芽生えた激しい想いを、彼女は持て余した。
 心が、体が、彼の存在を求めていた。
 側にいて欲しい。ずっと見ていて欲しい。自分だけの者になって欲しい。
 とめどなく溢れるエゴは、それまで感じてきたどんな感情よりも激しく、強かった。元々攻撃的だった性格に、拍車がかかり、その標的は自らの心を乱す少年へと向けられた。
 少年はそれに反発することなく、彼女が傷つける度に、自らその傷をえぐっていた。そんな態度に少女はまた混乱し、再び彼を傷つける。
 悪循環。少年は以前に、彼女が自分に釣り合う人間と考えて選んだ男に、あらゆる面で劣っていた。内罰的で、自尊心の欠片もなく、ただ人の目を気にするばかりの小心者。
 そんな少年に惹かれている自分がいる。彼女の心は千々に乱れた。
 悪いことは重なるもので、少年が彼女のシンクロ率を越えたのは、正に彼女の心が相反する二つの思いに引き裂かれそうになっていた時だった。
 それからの彼女はただ、自分の傍観者でしかなかった。己の心が壊れ落ちる音を聞きながら、何もすることが出来なかった。使徒の精神攻撃が決定打であったが、それがなくとも、時間の問題であったことだろう。
 彼女は、消えた。彼の。そして周囲の目から、逃げた。
 一人になりたい。一人でいたくない。焼き尽くされる心。
 少女の崩壊しかけた魂を救ったのは、彼女がこの世で最も憎み、最も愛した少年だった。全てを、自己の存在すら拒んだ少女に、彼は手を差し伸べた。
『それでも僕は、君が必要だよ』
 彼女は彼を近づけないために、ののしり、蔑んだ。だが彼は、決して引かなかった。どのようにされても、笑顔を絶やさなかった。
 彼女が、手近にあったナイフで、彼の脇腹を刺した時ですら、変わらず。
 その感触は、彼女を正気に戻した。溢れ出す、鮮血。生々しい匂い。
 彼女は言葉を失って、立ち尽くした。何かが決定的に壊れかけた瞬間。
 少年は、痛みに顔をしかめることもなく、彼女の体を引き寄せて、離さなかった。
 彼の胸に抱きしめられた時、少女は声を上げて泣いた。ただひたすらに。涙を流すうちに、自らの心の澱もまた、流れていくような気がした。
 一人で生きていける、そんなプライドがくだらないものだと思った。自分には、この人が必要なのだ、と。
 だから強く、強く、彼を抱きしめた。ひたすらに、二度と離さないと心に決めて。
(……そう決めたはずなのに)
 彼女は心の中で呟く。自分はこうして今、ここにいる。
 サード・インパクトを未然に防ぎ、全ての戦いは終わった。
 だが二人の関係は、あの時以来、何も進んでいない。
 拍子抜け、という言葉が一番、彼女の心を表すのに適していた。自分達が恋人になった、と思っていたが、彼の態度は、以前と全く変わらなかった。だから、彼女の心には迷いが生じることとなった。
 一度迷い始めると、全てが疑わしくなってくる。
 あの時、必要だと求められたのは、嘘だったのだろうか?嘘ではなくとも、愛しているという意味ではなく、ただ友として、仲間として、という意味だったのではないか?だとすれば、自分はとんでもない勘違い女だ、ということになる。
 簡単な方法がある、ということには気付いていた。
 確認すればよい。ただ、『アタシのこと、好き?』と。
 だが、出来なかった。もしそこで拒否されれば、二人の関係は壊れてしまうだろう。未だ保護者である女性を含めて、三人で同居しているが、きっと耐えられなくなってしまうに違いない。そうなるよりは……今のままでいい。それほどまでに、少女は彼の側にいることに固執していた。
 変わらない態度を取るから、こちらも同じように、軽口を叩く。日に日に増す不安と戦いながら、少女は偽りの仮面を被り続けていた。
 だからドイツから、帰国要請が来た時、いい機会だと思った。
 少年がこれで引き留めてくれれば、それはきっと、自分を想ってくれているからだ、と。
 だがしかし、少年は何も言わなかった。無残に打ち砕かれそうになる希望。しかし少女は、一筋の期待を胸に、これまで待ち続けていた。
 全て空振りであったが。
 自分から、想いを口にすることが出来れば、どれほど良かっただろうか。
 だが彼女には出来なかった。プライドもあったが、拒絶された時のことを思うと躊躇われるのだった。『アタシのこと、好き?』と尋ねるのに比べて、『好きです』と告げるのは勇気がより一層必要だし、拒絶された時のダメージの大きさもまた、桁が違う。
 恋を経験していなかったからこそ、少女はあまりに奥手になり、そして未知の体験をすることを恐れていた。
 結局、彼女はドイツに来ている。これから二人が向かうのは、NERVドイツ支部。
 そこで最後の結論を出さなければならない。
 このまま残るか。
 日本に帰るか。
 少年がいるのは、彼女の最後の望みからだった。無理やりついてこさせたのだが、せめて、この旅のさなかに、何がしかの行動をとってくれないか、と。
(アンタに最後のチャンスをあげるわ、バカシンジ。これでわかんないようだったら、その時はお別れねっ)
 日本を発つ時は威勢の良かった彼女の心だが、それが単なる虚勢にすぎないことは、彼女自身が一番よく、わかっていることだった。
 そして彼女は心に決めている。
 彼が何も言わなければ、自分はドイツに残ろうと。
 いたずらな期待に振り回されることに、限界を感じていたから。いっそ、離れてしまえば、痛みも忘れられると思うから。

 もう後、五分もすれば、支部の建物が見えてくる。
 その扉をくぐり、出てきたときから、二人は別々の道を歩むことになる。
(本当にそれでいいの?)
 立ち止まったアスカの心の中で、響く声。
 初めて求めた他人。隣に立つことを許した……否、望んだ男。
 結婚をして、子供を生んで。そんな当たり前の普通の幸せを夢想するようにすらなった。今になって思えば、ドイツにいた頃、あれほどまでにそんな夢を否定したのは、自分のことを半端だと自覚していたからだったのだろう。
 彼らが求めていたのは、エヴァンゲリオンのパイロットとしての自分。子供を産むように求められていたのは、おそらくその血筋を調べたいがため。実験動物のようなものだったのだろう。
 だが少年は、惣流=アスカ=ラングレーという人間を求めてくれた。一人の女性として、見てくれた。
 そして彼女に、恋と言う素晴らしくも辛い感情を教えてくれた。
 加持を相手にして楽しんだゲームも、望んでいたことの裏返しだったのかもしれない。恋なんて一生しないと思っていたからこそ楽しめたが、その実、憧れていたのではないか。自分が本当に恋をする日が来るということを、願っていたのではないか。
(引き離されて、平気なの?)
「平気なわけないっ!」
 小さく、だが強く答える。
 もうすでに、アスカの中に、シンジのいない世界などあり得ないものだった。
(このままじゃいけない)
「そう、このままじゃいけない」
(伝えなければ)
「アタシの気持ちを」
(一番大切な人に)
「バカシンジに」
「何か言った?」
「キャァッ!」
 心の声と対話をしていたつもりだが、少し声が大きくなってしまっていたようだった。声をあげて振り返ると、少し近づいてきていたシンジが、キョトンとした顔でアスカを見つめている。
「ちょ、ちょっと!急に声かけないでよね!?」
「え、あ、ごめん」
 慌てて謝るシンジだが、どこか釈然としていない様子。
 その顔が、普段の彼と同じであることに、心を締め付けられるアスカ。
「……なんでそんな顔してられるのよ……」
 わかっているのだろうか、と疑いたくなる。もしかして、彼女がドイツに残る、などと思っていないのかもしれない。
 やるせない気持ちに、彼女は歩き出す。ほんの少し前に決めた覚悟は、霧散してしまっていた。
「アンタさ」
 うつむきながら、アスカはゆっくりと口にする。背後の少年に向けてではなく、自分にだけ聞こえるように。
 鼓動が早まる。胸が痛いほどに。ゆっくりと漏らした白い吐息が、風に流れて消える。
「わかってんの?この状況」
 もう、見えてきた。支部の建物。
 そこが二人の終着駅に見えて、アスカの心は重く、足取りも遅くなる。
 情けない話だ。そう思って、彼女は自嘲する。
 エヴァを操り、政治的駆け引きにまで使われる、重要人物である自分が。幼少の頃より、誰にも負けぬようにと育てられ、励んできた過去を持つ自分が。
 今は、ただの弱い女でしかない。
 一人の男の心を見抜くことはおろか、探ることも出来ず、右往左往するばかり。さりとて、己の気持ちを伝えるだけの勇気すら持ち合わせておらず。
(駄目だな、アタシ)
 弱気になっている。そんな自分はらしくないと己を叱咤激励して、せめて空元気だけでも出そうとするが、
「あーあ、とうとう来ちゃったわね、懐かしいドイツ支部」
 口にする言葉も空々しい。だがしゃべらないともう、何も言えなくなりそうで。
「ずっと常夏の日本にいたから、やっぱ寒いわね」
「アスカ、昨日も同じこと言ったじゃないか」
 クスクスと笑いながら、シンジが言う。確かに昨日、空港に降り立ってすぐにも、アスカはそう言ったのだが。
「うるさいわねっ!寒いもんは寒いのよっ」
 心を知らない彼の言葉に、思わずアスカの口は荒くなる。
(鈍感大王っ!バカシンジッ!)
「何、怒ってんだよ」
「ふんっ!まあアンタは、すぐに日本に帰るんだろうからいいでしょうけれどねっ!」
 言ってしまってから、さーっと顔から血の気が引いていくのがわかる。
 激情にかられ、思わぬ言葉を口にしてしまう悪い癖。それが、最悪の時に出てしまったのだから。
(どうして、こうも……)
 素直になれないのか。日本にいる彼女の親友が、何度も口にして注意してくれたことなのに。こんな時まで、自分は。
「アスカ、ドイツに残るつもりなの?」
 彼の問いが、彼女の耳を突く。そこには、何の感慨も含まれていなくて。
「……………………」
(アタシらしい、かな)
 答えぬまま、アスカは足を少し速めた。
 もはや何も、彼女は感じていなかった。ただ胸に広がる空ろな虚しさが、痛かった。
(アタシが一人で踊っていただけなんだ。何よ、期待させて。フンッ、バカシンジなんて、こっちから願い下げよっ!こっちでいい男見つけて、絶対後悔させてやるっ!)
 胸の中で叫びながら歩くアスカ。その視界が、少しずつにじんでいく。
(そうよっ。このアタシに、アンタなんて不釣合いなのよっ。ちょっと料理がうまいからって、アタシが美味しいって褒めたら、何度でも同じ料理作って。外に出る時だって、アタシが言わなきゃセンスの無い格好して。最近は少しマシになったけれど)
 雪を踏む音が、少しずつ弱々しいものになっていく。
(ちょっと背が伸びて、アタシを抜かしたからって、いい気にならないでよね。それにしても、最近、周りの女どものシンジを見る目が違うのよね。今更、気付いたの?シンジの良さに。優しくて、優柔不断に見えるけれど、芯はしっかりしてて。笑顔が綺麗で、まじめな時は見とれちゃいそうになるし。授業中だって、気が付いたらシンジの顔を見てる……)
 そんな日常は、もう来ない。
(ヤダヨ)
 熱い。胸が。頭が。その熱が全身に広がっていく。
 あふれ出す涙が一筋、頬を伝う。止めようとしても止まらない。彼女の細い喉の奥から、小さな嗚咽が漏れ始める。
(ヤダヨ……シンジト、ハナレタクナイ)
(だけどシンジは、アタシのことなんて、友達ぐらいにしか思ってない)
(ハナレタクナイ)
(未練がましいわよ、アスカ。決めたんでしょう?何もなければ、ドイツに残ると)
(ハナレタクナイ……ケド、コンナキモチノママ、ニホンニイラレナイ)
(そうよ、アスカ。あきらめなさい)
(アキ……ラ……メ……ル)

「じゃあ、僕もドイツに残るよ」

「………………は?」

 立ち止まったアスカは、耳に残った彼の言葉を、頭の中で何度も反芻する。
(ドイツに残る?どういうことよ?)
 振り向くと、そこには少し困ったように笑うシンジの顔が。いつもと変わらぬ表情に、アスカは先ほどの言葉が幻聴だったのでは、と考えてしまう。
「今、何て言ったの?」
「アスカがドイツに残るつもりなら、僕もドイツに残るって言ったんだけど」
 しれっとして言うシンジ。
 呆然とするアスカだが、やっとその言葉が頭に入ってくる。
「な、何バカなこと言ってんのよっ!チルドレンが二人して、こっちに残ったら大変じゃないっ!」
 思わずアスカは、突っかかってしまう。が、彼は穏やかな瞳のまま、
「そうなの?」
「そうなの、って……アンタね、わかってて言ってんの?」
「僕はアスカと一緒にいたいっていうだけなんだけどね」
 その笑顔と言葉に、アスカの顔は一気に紅潮する。とんでもない不意討ちだ、これは。
「け、けどパワーバランスが……」
「エヴァを巡る政治的駆け引きってやつだろ?難しいことはわからないけれど」
 軽く顔をしかめたシンジは、ゆっくりと首を振る。
「正直、僕にとってエヴァなんて何の価値もないよ。こんなこというと、皆に怒られちゃうかもしれないけれどね。でも、実際そうなんだし。僕が一番大事だと思ってるのは」
 吸い込まれるような笑顔。アスカは、言葉を待つ。
「アスカだよ」
 何も……言えなくなる。
 望んでいた言葉は、あまりに呆気なく。だけど、心に響いて。
 いつかのように、よどんでいた彼女の心に、清涼な風が吹き抜けて。燻っていた想いを流していく。
「ア……」
「ア……?」
 怪訝な顔をするシンジ。
 しばし真っ赤になって俯いていた少女は、沸きあがる思いを言葉に乗せて、

「アンタ、バカァ!?」

 叩きつけた。

「バカって、ひどいなぁ、アスカ」
 言われた少年は、少しびっくりしているようだが、笑顔は崩さない。
「アンタねぇ、いきなりすぎるわよっ」
「そうかな」
「大体、ドイツに残るって、ドイツ語も喋れない癖に、どうやって生活すんのよ?」
「うーん、元々人と喋るのって苦手だし。それにほら、三年も住めば、自然に会話ぐらい出来るようになるかなぁって」
「無茶苦茶言ってるんじゃないわよっ。それに、日本の奴らが許しゃしないわよっ」
「ま、何とかなるんじゃない?」
「何とかって……」
 絶句。いつの間にここまで、楽天的になったのだろう?
「僕はアスカがいれば、どこにいたっていいし」
「アンタね、もうちょっと考えてしゃべりなさいよ」
「ひどいな、ちゃんと考えてるよ」
「どこをどう考えたら、そんな結論が出てくるのよっ。大体、日本に未練とかないわけ?」
「アスカなら日本に帰る、って言うと思ってたし。まあドイツに残るなら、それはそれでいいかもしれないな」
「どうしてアタシが日本に帰るって言うと思ってたのよ?」
「さっき言ってたパワーバランス。アスカならそこまで考えてるだろうから、ドイツに残らないだろうなぁって」
「まあ、それは確かにそうだけれど」
 ドイツに来ても、大したメリットはないことぐらい、アスカにもわかっている。
 ふと考えると、実はさらっと大変なことを言われていることに気付いて、アスカはまた顔を染めた。
「アンタの意思はどうなのよ?」
 一度意識してしまうと、何となく目を合わせづらい。アスカはシンジの唇だけを見つめた。そこから語られる言葉を、決して逃さないように。
「僕?僕は、アスカのいるとこに……」
「それはわかったからっ!」
 嬉しい。たまらなく嬉しいのだけれど。少女はただ、黙っていられないだけ。
「アタシに日本に残って欲しいとか、思ってないわけ?」
「そりゃ思ってるけれど。やっぱり、知り合いがいるところの方がいいし」
「じゃあ、ちゃんとそう言いなさいよっ!言葉にしてくれなきゃ、わかんないじゃないっ」
 歓喜してもいいのだろうが、それよりも脱力感が勝っていた。
 さっきとは違う意味で、自分が一人相撲を取っていたことに気付いたのだから。
「それは、アスカだって同じだろ?」
 初めて少年が、笑顔を崩して、少し顔を背けながら恨めしげに見つめる。
「な、何のことよ?」
「あの時の答え、まだもらってない」
「へ?あの時って?」
「言ったろ、『アスカが必要だ』って。今も言ったけれど」
「………………」
 考えるまでもない。彼女が壊れかけていた時のことを言っている。
 そういえば、確かに、言われただけで、それに答えていない。というより、答える必要なんてないと思っていたのだが……
 見ると、シンジはやや不安げにアスカを見つめている。その姿は、初めて会った頃と同じようで、だけどどこか違っていて。
(何だ……)
 彼女の心の、欠けていたピースが埋まる。
(同じだったんだ)
 それは、ほんの少しのすれ違い。
 彼もまた、悩んでいたのだ。
 アスカからの答えがない、ということに。彼女が、シンジから何も言われないことで、心ざわめかせていたように。
 ただ二人とも、近づけなかっただけなのだ。お互いの心には気付いているはずなのに、形にしたわけではなかったから、それが確かな物だと信じられずに。
「鈍感」
 ボソッと言うアスカだが、
「そうだよ。どうせ鈍感大王、バカシンジだから。ちゃんと言ってくれないとわかんない」
 かすかに揺らいでいる彼の言葉に、アスカは変化を感じた。少し前までなら、卑屈に聞こえていたのに。
 今は、それがない。
 確信してはいないけれど、だけど、信じてくれているのだろう。
「そうだったわね。アンタに期待したアタシが、バカだったわ」
 ため息をついて、アスカはまっすぐに、シンジの瞳を見つめた。
 返される視線。暖かい光。
 アスカの肩から力が抜けていく。悩んでいたことが、バカらしくなってきていた。
 答えは手を伸ばせばすぐの所にあったのに、それに気付かなかっただけ。
「アタシも、アンタのこと、必要としてるわよ」
 少しずつ縮まる、二人の距離。
「ほら、今度はアンタの番よ。ボケたら、承知しないからね」
「わかってるよ」
 軽く笑い合う二人。
 彼が何を求めているのか。アスカにはそれがわかっている。そして自分が何を求めているかを、彼が知っていることもまた。

「好きだよ、アスカ」

「アタシの方がもっと好き、バカシンジ」

 少年の腕に抱かれ、アスカはゆっくりと目を閉じる。背中に回される手。彼女も抱きしめ返す。彼の胸板は、以前より少し、厚くなっていた。
 軽く力を入れて、体を引き寄せる。彼もまた、それにならって。
 初めてアスカは、少年の鼓動を感じた。そして思う。
 手に入れた、と。いつからか渇望していた、自分の居場所。居てもいい場所ではなくて、居たい場所を。
「あ」
 少年の言葉に、目を開けて彼の顔を見る。
「雪」
 ひらひらと舞い落ちる結晶。一つ、また一つと、二人に降り注ぐ。
 音を立てて風が吹き抜ける。だがその冷たさも、今のアスカは気にならない。
 少年の、決してたくましいわけではないけれど、それでも彼女の体を受け止めるには十分な腕の中にいたから。
 身も心も、何も感じられないほどのぬくもりに包まれていたから。
「シンジ」
 優しく見つめられて、アスカは微笑む。この人を、もう決して、手放さない。
「バカシンジ、アタシを心配させて」
「心配してくれてたんだ?」
「フン。まあいいわ。ぎりぎり間に合ったことだし、今日のところは許してあげる。その代わり」
「その代わり?何?」
「今度からは許さないからね?アタシを心配させるような真似しちゃダメよ?」
「どういう風にすればいい?」
「アタシを見て。絶対に目をそらさないで。アタシだけを愛しなさい。こんな美人を捕まえるなんて、アンタの一生に二度とないことなんだから」
「わかった。二度と離さない」
「それでいいのよ……バカシンジ」
 瞳を閉じる。
 一瞬、彼女を抱きしめた手が震えたが、ゆっくりと。
 顔が近づいてくる。
 唇に触れる、柔らかい感触。
 寒さに少し冷たくなっていたけれど。
 彼女の心に、暖かい火を付けて。
 永遠に、こうしていてもいい、と思えるほどに。
 二人にとって二回目の、そして、いつまでも記憶に刻まれる。
 口付け。

 雪が舞い散る中、二人は時を忘れ。ただ、お互いの存在を、体中で感じていた。
 アスカは思う。
(ここが、アタシの家。帰るべき場所)
 碇シンジという少年の腕の中こそ、惣流=アスカ=ラングレーが最も輝ける場所なのだから。
 



    次回予告
 中学を卒業し、高校へと進学するシンジとアスカ。
 二人は冬月に呼び出され、桜の花びら舞い散る公園に赴く。
 穏やかな時間に、彼が思うことは……

 歳時記之弐 やがて僕達は、年をとる



<後書き>

 寒さも一際、厳しくなってきましたね。いかがお過ごしでしょうか?ガラガラ猿です。
 いつもお世話になっているドラえぽん様に、投稿させていただきます。一応、シリーズものです。今回はLASですが、次からは、エヴァの主要キャラに一人ずつ、最終的には総出演していただく予定です。次は冬月。


良い!えがった(´Д⊂
というわけで、ガラガラ猿さん投稿ありがとうございますっ。

いやあ、ウマイなあ。アスカ様の心情風景だけで無茶苦茶ハラハラさせられましたよ。相手の気持ちが判らない不安。恋をするとどうして良いか判らなくなるんですよね、特に初恋は(・´д`・ ←ちょっと恥ずかしい

こういうすれ違いってこの二人らしくてなんか良いッスね〜。もちろん、すれ違ってすれ違ってやっと通じ合えるっていうのが良いんですけど。
新年から心温まる作品を読ませて頂きありがとうございました。
次回も楽しみです(^ ^

ガラガラ猿さんにはまだまだ投稿掲示板にも作品を頂いております。こちらも要チェックです。

さあ、質の高い作品を次々と生み出してくれるガラガラ猿さんに是非ともご感想を!
ガラガラ猿さんへのご感想はこちらへお願いします。
または感想掲示板へもお気軽にどうぞ。
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