右手左手シリーズ
「心に灯る光、その名は」

ガラガラ猿





 その日、キール・ローレンツが目覚めると、右手が碇ユイになっていた。
「何者だ、お前は」
「あら、もうお忘れですの?碇ユイですわ」
 言って、女は冷たい笑みを浮かべた。

「無駄ですわよ」
 人を呼ぼうとした彼だが、彼女の言葉に動きを止める。これが現実か否か、定かではないが、彼女の言葉に間違いはない。そんな確信めいた思いを抱いたからだ。
「ほう。そういえば、そんな女がいたな」
 ならば、語れば良い。すぐにキールは、心を定める。何故、このようなことになったか、それは後で探れば良いことだ。
「あら、随分なお言葉ですわね。あなた方に道を示して見せたのは、私だというのに」
 悠然と笑うユイだが、その目には苛烈な光が浮かんでいる。だが所詮、女だ。キールは、この程度の視線で揺らぐような精神の持ち主ではなかった。
「ふん。いつかは誰かがたどり着いていた。ただお前が、一番だったというに過ぎん」
 人類補完計画。人類全ての心を一つにし、進化の階段を登る計画。
 その核となる部分の論理を築いたのは、確かに、今、彼の右手に現れている女だった。
「まあ、そうでしょうね」
 あっさりと頷くユイ。だがその目は変わらず、キールの目を射抜き続けている。
「それでも、私としては不本意なことですわ。自分の理論が、間違った思想に使われているのは」
「アインシュタインを気取るつもりなら、やめておいた方がいい。所詮、科学など、人に使われる物だ」
 高名な物理学者の名を引き合いに出して、キールは反論する。
 その物理学者が築いた理論は、彼の意思を離れて、大量殺戮兵器の基礎となった。彼は自らの理論がそのように用いられたことを、悔いていたという。
「もっとも、今の不完全な人間には、過ぎた玩具であるとも言えるがな。科学というのは」
「そのために、人は進化しなければいけない、と?」
「全くもって、その通りだ。不完全であるが故に、人は争い、憎み合う。何故か?心を一つにすることが出来んからさ」
 不完全なる心の群れ。人類を、キールはそんなものだと思っている。
 同じ種であるのに、信じきれず、裏切り合う。相手を自分と同じ人間と思えないから、心を通い合わせようともしない。そして生まれる争い。
 ゼーレは、常に待ち続けていた。人という種が変わるのを。進化し、完全なる一つへと変わることを信じて。だが、待つ時はあまりに長く、そして成果は見えなかった。
 愚かな人間は、あいも変わらず、殺しあう。
「不完全なるものを完全なるものにしようとする。それのどこが悪い」
 そしてゼーレは動き出した。
 きっかけは、確かに碇ユイが築いた理論だった。
 科学と言う、人が手にした力を用いることで、人が進化する可能性。人が人の力で、進化の階段を上るという理論。
 ゼーレはそれに注目し、検討を重ねた。そして結論を出す。これは可能だ、と。
 もちろん、彼女が考えた論理はあくまでも机上の空論に過ぎなかったかもしれない。彼女にとっては、夢物語のようなものだった。
 だがゼーレには、彼女の考慮していなかった要素、アダムという存在があった。そして、裏死海文書もまた、彼らの手にあった。
 彼らの切り札とも言えるそれに、彼女の理論を組み合わせることで、待ち望んでいた進化を起こすことが出来る。
 そう確信した彼らの動きは、早かった。かつ、容赦のないものだった。
 セカンド・インパクトから、エヴァの建造、そして使徒襲来。十五年という月日はあっという間に流れた。決して短くはないが、長き時を待ち続けてきた彼らにとっては、ほんのわずかな時間に過ぎなかった。
「それにしても、よくも私を謀ってくれましたわね?」
「何のことやら」
「とぼけないで。セカンド・インパクトのことですわ」
 セカンド・インパクト。南極から生まれた悲劇。彼らはそれを、偶発的な出来事だ、と彼女に語った。それは一面真実ではあった。アダムの力を抑えるために力の解放を促したのだが、地軸が傾くまでの大災害になることまでは、予測しきれなかった。
 もっとも、反面、それは彼らにとって好都合なことだったが。大災害が起きるであろうことは予測出来ていたので、彼らは入念に準備を整えていたため、彼らが被った被害など些細なもの。多少、予測が外れたとはいえ、逆にそのことで、ゼーレが世界を支配しやすくなったことも確かなことだった。
「それと、私がエヴァに取り込まれた後……ゲンドウさんをそそのかしましたわね?」
 確かに、碇ユイがエヴァに取り込まれ、初号機の中に消えた後。失意に塞ぐ彼に、彼女に会うための方法としてのサード・インパクト、という考えを吹き込んだ。もっともそれは、ゼーレとして、ではなかったが。

 碇ゲンドウという男は、未だ六文儀姓であった頃から優秀な人材として、ゼーレに目を付けられていた。彼が持つ野望と、それを可能にする心の強さ。彼が碇ユイに近づき、婿に納まった時は、素直に喜んだものだった。その件に限っては、彼らは何の力も用いていない。当人達の自由な意思による結婚であった。
 我がことなせり。
 キールが、二人が入籍した時にもらした言葉が、全てを現している。全ての事象が、ゼーレの計画を後押ししているかのように思えたのだ。
 だがそこから、計画は些細な狂いが生まれ始めようとしていた。野望に己の全てを捧げるであろう、と思われていたゲンドウが、家族への愛に目覚めたのだ。碇ユイという女性を彼は、己の権力達成の為の道具としてしか見ていない。そのように捉えていたゼーレは慌てることになる。
 また同じ頃より、碇ユイという女性が、ゼーレとは相容れない存在だと思われるようになっていた。彼女は本来、優しさを基調とする精神構造を持ち、時として人を切り捨てることを何とも思わない苛烈さを持つゼーレの意思を知れば、それに反発する、と考えられたのだ。
 これらの問題を一気に解決する手段は、キールの発案によるものだった。
 碇ユイという女性が邪魔なら、消せばよい。
 碇ゲンドウが家族というしがらみにとらわれているのであれば、その家族を消し去ってしまえば良い。だがそれで、彼が意気消沈し、全てを捨て去ることは困る。
 全てを一気に解決する方法。
 それはエヴァ初号機に碇ユイを乗せ、その魂を初号機のコアとすること。
 ゲンドウは碇ユイを失い、そこに偽りの手段を吹き込むことで、こちらに引きずり込み、手駒とする。
 彼の決断は、すぐに実行に移される。そして、碇ユイは初号機の中へと消え、碇ゲンドウは、ゼーレの前線指揮官となった。
 もちろん、彼がゼーレの描くシナリオとは、別のシナリオを描くであろうことは、予測済みだった。だが、どちらにしても、彼らにとってはサード・インパクトが起これば良いのであって、そこに至る道筋など関係がなかった。
 それに、ゲンドウという男に、余計な考えを起こされれれば面倒なことになる。そのためには、彼の性格を利用すれば良い。ゲンドウは、対立する上位概念がある時ほど、真の力を発揮する。この場合、ゼーレのシナリオというのをちらつかせれば、自らの意思にそぐわぬそのシナリオに対抗することに気をとられるであろう。肝心なのは、その他の可能性というものを考えなくなる、ということ。
 生来の革命者であり、反逆者。
 それがゼーレの、ゲンドウに対する評価だった。
 ここまでのところ、ゼーレの思惑は、狙い通りに行っている。ゲンドウはこの十年、彼らの狙い通りに動いている。彼が、ゼーレに隠れて動いていることすらも、ゼーレの狙い通りなのだが、そのことをゲンドウは知らない。
 
「あの男はよくやってくれている。褒美に、奴の望む夢とやらを見せてやっても良い」
 そう、最終的に、サード・インパクトに至れば良いのだ。ゲンドウのシナリオに沿って動くつもりは毛頭ないが、ゼーレのシナリオ通りでなくても構わない。
 キールにとって、これは一種のゲームのようなものだった。至高なる存在へとたどり着く前の、最後の遊戯。駆け引きを繰り返すのは、楽しいものだ。それも、自分が絶対的に有利な立場において行っているのなら、なおさらに。
「あらあら、それは寛大なことですわね」
 皮肉めいた口調でユイが言った。彼女の目には明らかに、蔑みの光が浮かんでいる。
「ゲンドウは、お前のために動いているのだぞ?素晴らしいことだな、そこまで思われるというのは」
「人をそこまで思ったことのない人間に言われても、嬉しくはないですわね」
 キールの返す言葉をあしらうユイ。だが彼の表情は崩れない。あざけるような笑みを浮かべたまま。
 彼の心には、余裕が生まれていた。これもまた、遊戯のようなものだ。現実であれ、夢であれ。
 最近、彼がこうして人と語ることは少ない。ただ、わずらわしいのだ。人という存在が。完全なる一つと比べて見てしまうが故に、その不完全さが目立って、気に障る。
 せめて、自分に本気で刃を向けるような輩がいれば、とも思う。そうであれば、叩き潰す楽しみがある。逆に打ちのめされる可能性など考えない。自分が絶対の安全であるからこそ、危険は楽しめるものだ。
 突然現れた碇ユイが、危険な存在かどうかは定かではないが、少なくとも敵意を顕わにしてくる。ならば、暇つぶしに、付き合ってやっても良い。

「私はこれでも、人道主義者のつもりなのだがね。少なくとも肌の色で、人を差別はせんよ」
「それは羊飼いが、自分の飼っている羊の色を気にしないのと同じでしょう?」
「ほう、我らが羊飼いだとでも?」
「少なくとも、そうなろうとしているのでしょう?」

 初めて彼の顔から、笑みが消えた。バイザー越しに、彼女の瞳を覗き込む。が、そこからは何の感情も読み取れない。ただ冷たい拒絶があるだけ。
「貴様、何を知っている?」
「モノリス……あなた方は神になりたいのでしょう?」
 彼はここでやっと、目の前の女性に警戒心を抱くようになった。

 彼女の言うことは、正鵠を射ていた。
 委員会の人間のほとんどは、すでにその意思を、モノリスという長方形の機械に写しこんでいる。最近では、ゲンドウと会う時などにも、そのモノリスを代理に立てているほどだ。
 ゼーレがサード・インパクトを起こすもう一つの理由。
 それは自分達が、人の導き手になること。
 進化の階段を登って、人は完全なる一つになる。その過程で、人の心は溶け合い、全てを理解する。
 だがそれだけでは、まだ不十分なのだ。それだけでは、使徒と変わらぬ存在でしかない。
 使徒、それは本能に支配された存在。無へと帰ることのみを目的として存在する、矛盾した存在。
 人は、そうなってはいけない。無に帰ってしまっては、サード・インパクトを起こした意味がない。
 では、どうするか?導く存在があればよい。
 だが彼らとて、人間である以上、サード・インパクトから逃れることは出来ない。自分たちまで一つになってしまっては、導くことなど不可能だ。
 そこで考えられたのが、魂の束縛を離れた存在を作り出すことだった。
 作られたのが、モノリス。心を持たぬ機械。
 心、そして魂がなければ、補完されることもない。意思を、機械の電気信号としてしまえば、心などそこには生まれない。
 サード・インパクトの後も、モノリスは残り続ける。
 そして、完全なる一つを導く存在となるだろう。
 大いなる導き手。
 それを人は神と呼ぶ。


「自分達の魂は一つになって、意思だけは残し、神とならんとする……よくもまあ、大それたことを考え付きましたわね」
「人には導き手が必要なのだよ。たとえ、どのような形になってもな」
 探るようにユイの顔を見つめながら、キールは答える。
「あらあら、導き手が必要なのは、不完全な証じゃないかしら?」
「我らは崇高なる存在、絶対意思となるのだ。完全なるものと言えども、無視はさせんよ」
 モノリスに蓄えられた知識と意思。機械であるが故に、人のような揺らぎは生まれない。ただただ、己の意思を実行していくのみ。
「それが、あなた方の望みなのかしら?心無い意思となることが?」
「ふん。今と変わりはせん。我らにはもはや、心などないも同然だからな」
 その強い意思のみで、ゼーレは動いている。キールにしても、他のメンバーにしても、心などという存在は、とうの昔に忘れている。
「それで、幸せになれる、とでも?」
「幸せ?そんなものを求めはせん。幸せなど、心の産む錯覚に過ぎないからな」
 心がなければ、感情も生まれない。今の彼にとって、唯一機械と違う部分は、ただ楽しむという概念と、それに反する概念だけが残されているということ。
「ありとあらゆる感情は、不完全なる心が生み出した幻覚に過ぎん。愛だのと御託を並べて、人の心が本当に繋がるのならば、何故、人は争う。憎しみあう。それは愛などというものが、夢物語に過ぎんからだ」
「愛を知らないのね、可愛そうに」
 小さく呟いたユイの言葉は、キールの耳には届かない。
「ならば我らの手で、人の心を一つになさしめてみせよう。そして、我らが新たなる人を導こう」
 キールは言葉を続ける。いつしか、その言葉には熱がこもり始めていた。
「我らに導かれて、人はさらなる高みに上ることになろう。その先に何があるか、我らにも想像は出来ん。だが、確実に言えることが一つだけある。それが人にとって、もっとも良き道なのだ」
 彼は言い終えると、碇ユイの目を見据えた。大いなる自信を持って。

「結局、それがあなたの限界なのね」

 彼女はため息まじりにそう言った。そして、キールを見つめ返す。憐憫を込めた目で。
 バイザー越しに突き刺さるその視線に、彼は何故かおののいた。彼を確固たるものとして成り立たせていた意思、それが一瞬、揺らいだ。
「どういう意味だ、それは」
 詰問口調。だが微かに揺れている。自分でそのことに気付いて、キールは再び、おののいてしまう。
「聞こえなかったかしら?それがあなたの限界だと……」
「だから、それがどういことかと、聞いておるっ!!」
 ここ数年、出したことのないような大声を張り上げるが、碇ユイは涼しい顔でそれを流す。
「あなたもまた、人だということよ」
 そして、碇ユイは、言葉をつむぎ出す。

「所詮、不完全なる心の持ち主だから、完全なる一つを理解出来ていない。完全なる一つ、というのはね、揺らがないのよ。何故なら、心があって、なきようなものだから。あなたがたは勘違いしている。サード・インパクトは心の補完ではない。心がなくなることを言うのよ。そこには個はない。自分と言う個があったとしても、人と心を通い合わせる以前に、自分そのものが無くなってしまうのよ。一つになってしまうのだから。心を溶け合わせてしまえば、自分は壊れるの」

「それがどうだというのだ」

「まだわからないかしら?一つになった心にはね、自意識というものがない。何も考えなければ、何も感じはしない。完全なる停滞よ。そこに、あなた方が絶対意思と呼ぶようなものがあったとしても、一つになった心には、意思と呼べるようなものがないから、当然、導かれることもないのよ」

「そんなことはないっ!!」

「私には見えるわ。サード・インパクトの後の世界が。もし、あなたがたの望むような世界になったとしましょう。そして一つになった人を、あなた方が導こうとしても、あなた方はただ、人に取り込まれるだけよ。でなければ、モノリスを破壊されるか、ね。あなた方が望んだようにはいかない、ということだけははっきりとしている」

「違うっ!人はその意思を持って……」

「完全なる一つになれば、意思などありえないのよ。エヴァ……リリスの分身と一体化した私が言うのだから、間違いは無いわ。リリス、そして使徒達が何を感じていたのか、あなたには理解できないのでしょうね。それはね、絶対的な寂寥と虚無なのよ。彼らは何故、アダムを求めたのか?無に帰るという本能だけではない。それはね、寂しかったからなのよ。自分を理解してくれる者を求めたからなのよ。その結果、無に返ることになったとしても、それでも求めたのよ」

「人も……そうなるというのか」

「ええ。あなたがたが意思だけの存在となろうと、人はあなたがたを取り込もうとする。そこに心がなくとも、自分を理解してくれるものとして、求めるだけ。でも、あなたがたの意思は、人には伝わらない。何故なら人が一つになり、満たされたがために、もはや考えることをしないから」

「それで、どうなるというのだ」

「さあね。そこまでは私にもわからない。けれども、進化の最後に残るのは自滅……本能的な寂しさに耐えられない、完全なる一つは、自分の存在をこの世界から消し去るでしょうね」

「……………………」

「まだわからないの?人が不完全な心を持って生きているのは、人の存在を残すためなのよ。完全なる一つになってしまえば、もはやその先はない」

「違うッ」

「いいえ、違わないわ」

「人は、意思によって生きる生物だ!決して本能に流されなどせん!」

「意思というものはね、不完全なるが故に必要なのよ。もっと言ってあげましょうか?不完全な心を補完しているのが、人の意思。つまり、人は不完全であるけれど、同時に完全な存在でもあるのよ」

「人が、完全なる存在だと?ならばなぜ、人は争いをやめん、憎しみあうっ?」

「あなたたちは、あまりに大局的に物事を見すぎている。あなたがたが人と呼ぶ時、それは人類をさしている。でもね、人は人類という種に属するけれど、人類は単なる人の集合体ではないのよ。あなた方のあやまちは、そこから始まった。一人一人の人間に目を向けることなく、ただ人類というものだけを見ていたから、絶望してしまった。個に目を向けていれば、その間で、人が互いに心通い合わせる様を見ることが出来たのに。あなたがたは、心を捨てたが故に、理解できなくなってしまっていたのよ」

「我らに心は必要ない」

「心が必要ないと言うのならば、何故、心を補完させようとするの?結局、あなた方は自分達が寂しかっただけ。誰も自分達を理解できない、そう思い込んでしまったから、意思の力をもって一つになりたかった。それがあなた方の心の限界。そして心のことを知らないが故に、あなたたちは未来を見誤った。一つになった人が、どのような心を持つのか、理解できなかった。それがあなた方の意思の限界」

「……………………」

「まだわからないの?」

 そして女はまた、冷たい笑みを浮かべた。

「人類補完計画など、もう失敗しているのよ」

 響く銃声。
 キールの左手には、枕元に置かれていた拳銃があった。それで、右手に現れた女の胸を撃ったのだ。彼女の体には、大きな穴があいている。

 だが。 
 碇ユイは、それを全く気にしようとせず、笑みを浮かべ続ける。
 何年……いや、何十年ぶりかに、キールの背中を冷たい汗が流れた。


「まだわからないの?」


 響く銃声。銃声。銃声。
 彼は弾がなくなるまで、彼女に向かって撃ち続けた。吹き飛ぶ体。飛び散る頭。
 それでもなお、彼女は笑い続ける。
 顔を吹き飛ばしてなお、キールは未だそこに、彼女の笑みが浮かんでいるような気がしていた。


「どういうことだ。碇」
 キールは目の前のモニターに写る男に向かって問いただす。髭を剃り、サングラスを外したその男は、轟然と胸を張って答える。
「もはや、我々はゼーレの下に付く気はなくなったということです。人類補完計画からも、手を引きます」
「何故だっ!?」
 メンバーの一人が声を荒げて問いただす。
「碇、何を思って心変わりをした」
 キールもまた、動揺を隠しきれない。たかが前線指揮官の一人ではあるが、彼は計画の要を握っている存在だ。彼に背かれれば、シナリオは大幅に狂う。
「あなた方老人の妄想に付き合っていられなくなった……これでいいでしょうか?」
「な……」
 言葉を失う委員会の人間。キールも、また同じ。
「碇……君のシナリオすらも、放棄するというのか?」
 怒りを押し殺して、キールは問い質す。ゲンドウはしかし、動じなかった。これまでの、サングラスに己の表情を隠していた彼ではなかった。そこにいるのは、たとえ己の心を見抜かれたところで構わないという、強い意志をもった男だった。
「全ては、心の中に……だが、いずれは。そう思っていました。しかし、それが過ちだと気付かされた。たとえこの先ずっと、彼女が私の心の中にしかいなかったとしても、構わない。少なくとも、私は彼女の意志に添い遂げよう……それだけです」
「そういうことか……」
「そういうことです」
 冷然と、彼は言い放った。
 肩を落とすキール。だが次の瞬間、気を取り直す。
「ゲンドウ、貴様がそういう覚悟なら、こちらにも考えがある」
 エヴァ量産機と戦略自衛隊の投入。時期は早いが、もはやなりふり構っている場合ではなかった。計画を大幅に前倒しにすることになるが、それも止むをえまい。
「最後の最後で、裏切られるとはな。君を見損なったよ、碇」
 勝利はこちらのもの。まだ、キールにはその余裕があった。
 しかし。
「戦自は動きませんよ。私たちがすでに、手を打った」
「何ッ!?」
 薄い笑みを浮かべるゲンドウと、驚愕に顔を歪めるキール。
「それにこちらには、五体のエヴァがある。S2機関を持っているとはいえ、量産機にやられてばかりではいませんよ」
「五体……?まさかっ!」
「参号機の機体を修理して作った、参号機改。フォース・チルドレン、鈴原トウジも、再び乗ることを決意してくれました。密かに訓練をしていたお陰で、十分に実戦に対応できる。あなた方には知らせていませんでしたがね」
「駒を隠していた、というのか……」
 唖然とする委員会のメンバーを尻目に、ゲンドウは続ける。強い意志の込められた彼の言葉は、老人達の心を仮借なく突き刺していく。
「そして、使徒タブリス……いえ、渚カヲルも、こちらに付きました。我らと共に戦うことに同意してくれましたよ。消滅していた筈の四号機も、ディラックの海から彼が引き上げてくれた」
 タブリス……カヲルもまた、彼らの切り札の一つだった。独断が目立ち始めたゲンドウへの牽制として送り込んだのだが、このような形で裏切られるとは……
 タブリスは自由意志を具現化した使徒。だが、人とは相容れぬ存在と思われていた彼が、向こうについたということは。
 彼を、人と異なる存在である者すらを、受け入れる者がいた、ということか。
「まだあります。彼の力によって、ロンギヌスの槍も我らの手に戻った。そちらが九体とは言え、これで戦力的には変わらない」
「ロンギヌスの槍までも、か……」
 成層圏を突破し、月軌道上にまで飛んだそれの存在。量産機ですら、ロンギヌスの槍には太刀打ちできないだろう。
「……キール議長……」
 一人が声をかけてくる。その声は、絶望にかすれていた。
「エヴァ量産機を出せ」
 そう言ったのが自分だと、しばらくわからなかった。それほどまでに、その声は小さく、震えたものだったから。
「碇、我々はことをなしとげねばならん。お前の言ったとおり、これで対等の戦いになった。後はどちらが残るか……」
 神のみぞ知る……その言葉を、キールは飲み込んだ。神になろうとする男が、口にする言葉ではないと思ったから。
「結構。決戦というわけですな。では、これで」
 ゲンドウの顔がモニターから消える。最後に映った彼の顔は、緊張に引き締まっていたが、後悔の色は全く見られなかった。
 キールは、深く息を吐いて、体を椅子に沈める。
「何故だ。何故、こうなった……?」


「まだわからないの?」

 その声に、キールが顔を上げると。
 消えたはずのモニターに、碇ユイの顔が映っていた。

「まだわからないの?」

 再び、問いかけてくる。その顔に浮かぶ冷笑。

「うるさいっ!」

 反射的に取り出した銃で、モニターを撃つ。

「キール議長!?」

 肩で息をしながら、銃をしまおうとするキールは、かけられた声に顔を向ける。
 そこには、碇ユイがいた。

「まだわからないの?」

「うるさいっ!」

 また銃を撃つ。飛び散る血潮。ゆっくりと倒れながら、碇ユイはそれでもなお、笑っていた。

「キ、キール議長っ!?どうされたんですか?」
「な、何をっ!」

 ふと周りを見ると、彼は碇ユイに囲まれていた。いくつもの同じ顔が、問いかけてくる。

「まだわからないの?」

「まだわからないの?」

「まだわからないの?」

「うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ!!」

 彼は銃を乱射する。キールの耳には、ただ、彼女の声しか聞こえていなかった。撃つたびに倒れるユイ。しかしすぐさまに立ち上がって、あの笑顔で尋ねてくる。

「まだわからないの?」

「消えろーーーーー!!!!!」

 響く銃声、銃声、銃声。



「夢……か」
 跳ね起きたキールは、汗をかいて冷えた体に震える。
「ここ……は。そうか、私の部屋だ」
 遠くから、銃声が聞こえてくる。おそらく彼が、夢の中で聞いた音。
「ふ……無様なものだ」
 汗が流れ落ちると同時に、彼はゆっくりと思い出していく。現実の状況を。

 量産機を発進させた後、ゼーレのメンバーは皆、自宅に戻っていった。
 キールもまた、一人、家でその時を待つ。自室のモニターに写るのは、エヴァ同士の戦い。
 最初は量産機が、数を頼みに優勢に押し進んでいた。だが、徐々に、力の差が現れ始める。五体のエヴァは、互いにかばいあいながら、緻密な連携を見せる。
 特に、紫のエヴァ、初号機と、紅のエヴァ、弐号機の見せるユニゾンは、量産機をいいようにあしらい、屠った。それはまるで舞のよう。華麗で、無駄なく、いっそ美しいほどに。その二機の動きには微塵の惑いもなく、まるで二つに別れた一つの体のようだった。
 活動停止した量産機を、黒いエヴァ、参号機改がとどめとばかりに、ロンギヌスの槍でコアを潰して回っている。ゲンドウは実戦レベルに達したとはいったが、その機体が一番、動きがぎこちない。それでおそらく、現在の役目を言い渡されたのだろう。
 動きが鈍いために狙われる参号機改をフォローしているのが、青いエヴァ、零号機と、白いエヴァ、四号機。初号機と弐号機ほどのユニゾンはないものの、零号機が射撃、四号機が近接戦闘と役割を分担し、量産機の動きを止めている。
「これは、時間の問題だな」
 量産機の最後の一体が倒れたのは、その直後だった。
 それを見届けた彼は、モニターを消して、ベッドに横たわったのだった。

 銃声が近づいてくる。
 おそらく、NERVの人間達だろう。自らの勝利と共に、ゼーレの人間を、粛清するつもりなのだろう。
 他のメンバーはどうしているだろうか?
 ふと、彼は考える。
 自分はもはや、再起する気力がなかった。それほどまでに、この計画に、全てを賭していたから。
 荒々しく扉が開かれて、男達が入り込んでくる。
「キール・ローレンツだな?」
「そうだ」
「ご同行願おう」
 抵抗するつもりもない。言われるがままに、彼は男達に連行された。

「碇か、何をしにきた」
 連行された独房で待つことしばし。現れた男を見て、キールはそう言い放った。
「笑うがいい。裏切られた男の末路を。己の全てをかけた計画を、断たれた男のことを」
「裏切り?あなたが私を信じていたとは思えませんな。せいぜい、飼い犬に手を噛まれたぐらいにしか思っていないでしょうに」
「それで全てを失ったのだぞ、私はッ!」
 ゲンドウの言葉に、簡単に彼は激昂した。そして抑えていた激情を、言葉にして叩きつける。
「貴様はっ!人類の進化を止めたのだぞ!?我らに任せておけば、人は新たなるステージに進むことが出来た。完全なる一つになることが出来たのだっ!それを……それをっ!!」
 ゲンドウは憤る彼を、冷めた目で見つめていた。いつもモニター越しにしか見たことのない男。その存在感に圧倒されたこともあったが、今、こうして直接会って見ると、何のことはない、ただの老人に過ぎなかった。
(俺は、こんな男に、いいように扱われていたのか)
 自嘲気味に、ゲンドウは心の中で呟く。こんな男にそそのかされて、道を、踏み外しそうになったのだから。
「それが妄想だと言っている。人は一つになったところで、幸せにはなれん」
「……妻と同じことを言いよる」
「ユイと?」
 ゲンドウの顔が、微妙に歪んだ。
「おう、そうだ。あの魔性の女のことだ」
「あれのことを悪く言うのは止めていただこう」
「ふっ。所詮は貴様も、あの女に骨抜きにされた男よ。もっと剛毅な男と思っていたが」
「違うな。俺は彼女によって、助けられた。このくだらない男の俺に、手を差し伸べてくれた」
「それがだまされている、と言うのだ。わからんのか」
「わからんな。魔性の女、と言ったか。彼女はそんな女ではない」
「ほう、では貴様にとって、碇ユイとは何者だ」
「私の妻であり、私の息子の母であり、私が愛した女。そして……」
 ゲンドウは言葉を一度区切って、ゆっくりと、口にする。

「私を、導いてくれた……いや、導いてくれる存在だ」

「はっ、所詮はその程度の男だったか、貴様も」
「人を導くのは、人だけだ。あなたがたは、神にならなければ人を導くことが出来ない、そんな風にしか思えなかったから、妄想にとりつかれたのだ」
「貴様がそれを言うかッ」
 キールは言って、靴下の中に隠していた銃に手を伸ばした。
「死ねっ、碇っ!!」
 だがその時。
 彼の脳裏に、声がよぎった。

『まだわからないの?』

 愕然として彼が、右手を見ると。
 そこには、女の顔があった。唇の端を、軽く上げて、冷たく笑う。

『まだわからないの?』

「うわあああああっ!」

 キールは叫んで、引き金を引く。女に向けて。
 赤いものが飛び散る中、彼は何度も、何度も撃ち続ける。

 響く銃声。銃声。銃声。

 冬月は、その音に思わず立ち上がったが、扉を開けて出てきた男の顔を見て、安堵のため息をつく。
「無事だったか、碇」
「ああ、問題ない」
 その顔には、いつもの冷徹な表情が浮かんでいる。NERV総司令、碇ゲンドウの顔だ。
「奴はどうした?」
「自分の右手を撃ち抜いた。何を見たかはしらんが、な」
「お前は大丈夫だったのか?」
「ああ。そのための独房だ」
 キールは気付いていなかったようだが、彼とキールの間に、硬化ガラスが下りていたのだ。もし彼が、ゲンドウに向かって銃を撃ったとしても、傷一つつけることは出来なかっただろう。
「あまり心配させるな。銃を持たせたりしおって」
 独房に入れる前に、当然、身体検査はしてある。その時、彼はわざと、銃を身につけさせておくよう、指示しておいたのだ。
「あの男が、どれほどの男だったのか、そしてどれほどの男なのか、それを知りたかった」
 試してみたかったのだ。自分を操っていた男を。自害するほどの気概があるか。それとも安易に感情に揺さぶられ、彼を撃とうとするか。
 結局、残ったのは失望だけだった。キールに対して、ではない。自分自身に対して。
「で、どうするのだ。あの男の処遇は?今、ほうっておけば、自殺ですむぞ?」
「いや、もう人は呼んだ。右手を失うことにはなるだろうが、命に別状はない」
 彼の言葉と同時に、部屋から担架で運び出されるキール。すでに意識はないらしい。
「生かしておくのか?」
「殺すほどの男でもないし、まだ利用価値はある。それに、ユイの意にそぐわん」
「確かにな」
 彼女ならば……優しさに満ち溢れる彼女ならば、誰の命を奪うことも良しとはしないだろう。実際、甘いと知りつつも、彼はゼーレ鎮圧にあたって、人を出来るだけ殺すことのないように指示していた。
「せいぜい、残り少ない余生を、楽しく過ごしてもらおう」
「それがいい、というより、それしかなかろうな」
 運ばれていくキールを見送ることなく、彼らは踵を返す。
「やれやれ、これからが大変だな。ゼーレがなくなれば、NERVはどうなるか。そしてエヴァはどうなるか。まだまだやらねばならんことがある」
「ああ……そうだな」
「それに、初号機からユイ君もサルベージしなければならん……もっとも、今回は成功しそうだがな」
「………………」
 冬月が見ると、彼の顔には、穏やかな表情が生まれていた。それは、彼が碇ユイと、少ない時間を共に過ごしていた頃に見せていた笑顔。
「だが、まずは……」
「わかっています、冬月先生」
 ゲンドウは冬月の言葉を遮る。彼がまず今、なさねばならないこと、それは。
 彼らの意思を受けて、戦いに臨んでくれた、子供達に、感謝の意を示すことに、他ならなかった。


 それから、二年後。
 2017年。

 第三新東京市を遠く離れた、ある山の中に、その西洋風の屋敷は立っていた。そこに住む人間のことを、知る者はいなかった。周囲に人家はなく、屋敷の前には大きな鉄の扉が立ち、人を寄せ付けなかった。
 訪ねる者もいないその屋敷に今日、珍しく車が入っていった。その扉が、客を招くために開くのは、この二年で初めてのことだった。

「さあ、下りて下りて」
 運転席から姿を現したのは、黒髪に黒い瞳の女性。線は細く、柔和な顔つきをしている。年の頃は、二十代後半か。
 後部座席から下りてきた少年は、その女性によく似ていた。同じ色の髪と瞳。だが何よりも、その目に宿す優しい光が、二人の印象を近づけていた。二人はおそらく、親類なのだろう。
 その後から一人、金に近い紅茶色の髪の少女が下りてくる。その蒼い瞳は、常からの勝気な光を、今も宿している。
「ここが、目標の本拠地よ。準備はいい?」
「目標に準備って、母さん……」
「はい!大丈夫です、お義母様!」
 女性の言葉に、呆れたように返す少年と、張り切って答える少女。
「いい返事ね、アスカちゃん。それじゃ、シンジを頼むわよ」
 その女性の名前は、碇ユイ。少年、碇シンジの母親だ。そうは見えないのは、彼女が一時期、エヴァ初号機に取り込まれていたせいである。もっとも、彼女が幼顔だというのも、理由の一つではあるが。

 エヴァによる戦いが終わり、ゼーレが壊滅した後。
 一通りの混乱が収束した時点で、ゲンドウは初号機のサルベージを計画、指揮する。
 そして、彼女は帰ってきた。
 ゲンドウと顔を合わせた瞬間、殴り飛ばし、蹴りつけるユイ。だがそうされながら、ゲンドウはどこか幸せそうな顔をしていた。もっともそのお陰で、危ない性癖の持ち主と陰口を叩かれることになるが……
 その頃にはゲンドウも、赤木リツコとの仲を清算し、シンジともコミュニケーションを取るようになっていた。
 検査のための入院を終えた後、ユイはシンジに共に暮らす事を提案したが、
『ずっと父さんと会ってなかったんだろ?しばらくは、二人で過ごしたら?』
 シンジの答えは、三分の一だけ本当だった。残りのうちの半分は、ゲンドウにそう言ってくれるよう頼まれていたから。
 最後の、そしてそれこそが、彼の本心でもあったのだが……
 その時、彼の隣には少女の姿があった。青い瞳の彼女の手を、しっかりと握るシンジに、ユイは微笑みながら、どこか寂しさを感じたものだった。
 最初のうちは、どこかよそよそしかったゲンドウとユイの仲も、時が経つにつれ、元の鞘に納まった。
 もちろんそのために、ゲンドウは何度も土下座をさせられることになった。ユイだけでなく、数多くの人に……
 冬月はそんなゲンドウの姿を見て、
『ユイ君がかわいいと言ったのも、わかる気がするな』
 と、呆れたように言い、シンジは、
『父さんって、あんな人だったんだ』
 軽く笑いながら、愛する少女に話した。その顔は、とても穏やかなもので、少女の顔をも、ほころばせた。
 時間を開けて、次に弐号機のサルベージが行われた。
 姿を見せたキョウコに抱きつき、大声で泣くアスカ。それを見ながらシンジも、涙を流した。
『この人が、碇シンジ。私の……恋人よ』
 泣き止んだ彼女は、真っ先にシンジを母に紹介した。言われたキョウコは目を白黒させたが、やがて事の次第を飲み込むと、丁寧に頭を下げて、
『アスカを、よろしくお願いします』
 シンジに頼み込んだ。彼も慌てて頭を下げ返し、彼女に誓う。
『僕に出来る限りの力で、お嬢さんを幸せにします』
 それを見ていたミサトが、何だか結納の挨拶みたいだ、と思ったのは、あながち的外れなことではなかったのかもしれない。
 キョウコは一度、ドイツに戻ったが、すぐにトンボ帰りしてきた。どうやらユイと違い、夫に愛想を尽かしていたらしい。アスカを養ってくれていた義理の両親に、お礼を言ってきたようだ。そして、娘との時間を取り戻すべく、日本に住むことを決める。
 彼女もまた、アスカと共に暮らす事を望んだが、ユイと同じ理由で諦めることになった。
『何だかもう、お嫁さんに行っちゃった気分ねぇ』
 そう言ってため息をつくキョウコを、ユイは笑って見つめるのだった。
 結局、シンジとアスカの二人は今でも、コンフォート17の一室に、ミサトと暮らしている。同じ高校に通う二人は、公私共に認める恋人同士だった。
 碇シンジが十八歳の誕生日を迎えると同時に結婚する、という周囲の見方を、二人は決して、否定しなかった。


「あれ?お義母様は、一緒に行かれないんですか?」
 アスカが、ユイのことをそう呼ぶようになって久しい。最初は照れていたユイも、やがてそれに慣れてしまった。シンジがキョウコのことを、お義母さん、と呼ぶのを知ったから、というのもあったが。
「うーん、私が行くとね、色々、問題があるのよ」
 錯乱するかもしれないから、とは言えないユイ。二人はそんな彼女を訝しげに見ていたが、やがて納得したのか、車を離れていく。
「それじゃあ、母さん、また後で」
「はい、行ってらっしゃい」
 ヒラヒラと手を振って、ユイは二人を見送る。自然とつながれた、息子と、おそらく将来の娘となる少女の手。二人の間に、流れる穏やかな空気に、彼女は目を細めた。

 シンジとアスカは、屋敷に通されると、すぐに応接室へと通された。掃除の行き届いた部屋だったが、人の気配というのが感じられない。もう長い間、使われたことがないのだろう。
 外観は豪勢な造りの館だったが、中に入ってみると、意外に質素なものだった。シンジとしては、西洋鎧や剣、斧が飾られているのでは、と期待していたのだが、そういったものは一切ない。
「何だか、拍子抜けしちゃうわね〜。剥製の一つぐらい、あると思ってたんだけれど」
 隣に座るアスカも、似たような感想を持っていたらしい。部屋の中を何度も見回している。
「本当だね」
 そういった自分の声が、硬いものになっていることに、シンジは気付いた。そして、アスカも。
「大丈夫?」
 言って彼女は、強く彼の手を握り締める。
「うん。平気だよ」
 アスカがいるから。そう続けて、彼は笑みを返した。
「何、言ってんのよっ!」
 真っ赤になってしまう少女。その髪を彼は、優しく撫でる。
「本当だよ。アスカがいるから、平気さ。これから会う人にだって、アスカがいなければ、会おうと思わなかっただろうし」
 そう言った彼の言葉には、確かに力が溢れていて。アスカは、そんなシンジを、優しく見つめるのだった。


「……ということで、彼に会ってみる気、ある?」
 ユイからそう告げられた時、五人は一様に困った顔をした。
「私、行かない。興味ないもの」
「わいもええわ。今更っちゅう気がするしなぁ」
「僕もパスさせていただくよ。彼は好意に値しないしね」
 チルドレンに会って話をしてみたい。彼からそう要請があった時、ユイは男の真意を疑った。何しろ男は、彼らの敵であったのだから。
 他意がない、と彼は言うが、本当にそうなのだろうか?ゲンドウとユイは、慎重に調査を重ね、安全を期した上で、かつチルドレンが望むなら、ということで受諾した。もっとも、誰も望まないだろう、と思っていたが。
「シンジとアスカちゃんは?どうするの?」
 答えなかった二人に、ユイは問いかける。
 アスカがふと、隣を見ると、シンジは少しうつむいて、何かを考えているようだった。その手を掴むアスカ。彼が振り向いたので、彼女は笑って頷いてみせる。それに微笑み返して、シンジは言った。
「僕は、会ってみたい」
「どうして?」
 息子の言葉に少し驚いて、彼女は尋ね返した。一番、そんなことを言わなさそうに思っていたのだが。
「知りたいんだ。どうして、あんなことを、考えたのかなって。一体どうして、そこまで自分を追い詰めたのかな?それがずっと、気になってたんだ」
「シンジ……」
「碇君……」
「碇……」
「シンジ君……」
 口々に彼の名前を呼ぶ少年と少女。その目には戸惑いと、それを上回る優しさが溢れている。
(いい友達を持ったわね、シンジ)
 心の中で呟いて、ユイは感謝する。息子を、最後まで支えてくれたことに。
 大人達は、逃げようとしていた。なのに、まだ幼いといっていい彼らは、ひたすらに生きようとしていた。がむしゃらに、前だけを見ていたわけではない。迷いながら、時として傷つけあいながら、時には逃げながら、それでもゆっくりと、止まることなく進んできた彼ら。
 それは過ごした時の多さではなく。深い心のつながりが生んだ絆。
 シンジは彼らとの心の触れ合いを通して、何を学んだのだろう。そして、何を学んでいくのだろう。
 ユイは、それを見ることが、彼女の失った時を埋める方法だと思っている。
 彼女は彼の母親だが、少年はもう、母親の手を離れて歩いている。シンジを支えるのは、ユイではなく、隣に立つ少女なのだろう。彼女に出来ることは、見守ることだけ。
「アスカちゃんは……と、聞くまでもないわね」
「ええ、もちろん、シンジが行くなら、アタシも行くわッ!」
「やれやれ、アスカ君は、シンジ君にべったりだねぇ。たまには、僕達にも貸して欲しいもんだね」
 カヲルが言うと、レイもそれに続く。
「碇君、今からでも遅くないわ。私と一つにならない?」
「な、何言ってんのよっ!シンジは渡さないわよっ」
「ア、アスカ……」
 シンジの頭を抱きかかえるアスカに、シンジは顔を真っ赤にして抗議する。
「ほんま、からかうのは大概にしとけや、綾波も渚も」
 トウジが呆れたように言うと、
「おやおや、僕は本気だよ」
「私もそう」
「だから駄目だって言ってるでしょっ!」
「アスカ、苦しい……」
 騒ぐ彼らを見て、ユイは微笑むばかりだった。
「平和ねぇ……」
 それがどれほど尊いことか。ユイほどそのことを知る者はいないかもしれない。


 そして、今、二人はこの屋敷に来た。待つこと、しばし。二人は、使用人とおぼしき人物に連れられて、その扉をくぐる。
 彼は、そこにいた。部屋の中央に置かれたマホガニーの机の向こう、車椅子に座り、こちらを見つめている。
「来たか……」
「初めまして」
 シンジはそう言って頭を下げたが、アスカは、その顔に警戒心をあらわにしたまま、じっと彼を見つめるばかりだった。
「ああ」
 そう言って手を軽く上げるだけにすませようとした彼は、しかし、シンジのその態度に何かを感じたのか、ゆっくりと腰を曲げて、頭を下げる。

「お初にお目にかかる。私の名は、キール・ローレンツ。ゼーレの議長をしていたものだ」

 机を挟んで、二人は男と対面して座る。
 ゼーレ。NERVの上位組織だったもの。その長である男が、目の前にいる。
 シンジとアスカは、緊張感で体を強張らせながら、彼の顔を見つめていた。
 写真で見た顔とは違う。バイザーを外した向こうの目は、まぶたのたるみからか、半分閉じられているように見える。しかしその隙間からのぞく青い目には、老いてなお激烈な光が宿っている。
 だがその右手は、手首から先がない。膝にかけた毛布のふくらみから、それとわかる。
「セカンド・チルドレンの惣流=アスカ=ラングレーと」
 少女の方を見ながら、ゆっくりと言葉を発するキール。そして、視線を隣の少年へと移す。
「サード・チルドレンの碇シンジ……」
 シンジは一瞬、殺気を感じて身を硬くし、アスカは腰に隠し持つ銃に手を伸ばしかけた。
「ふん……よく似ている」
 だが次の瞬間にはその殺気も霧散し、深く、車椅子に座りなおす。シンジとアスカも、聞こえぬようにため息をついて、改めて男を見つめる。
「それにしても、よく、私の願いが聞き届けられたものだな。チルドレンとこうして話すなどと、思いも寄らぬことだったぞ」
「アンタねぇ、それが会いたいって言ってきた方の言い草?」
 呆れたようにアスカが言うと、キールはクックックと、喉の奥で笑う。
「気が荒いとは聞いていたが、ここまでとはな」
「なっ!?」
 アスカが椅子を蹴り上げる勢いで立ち上がったが、シンジが引き止めたため、すぐに座りなおす。その顔は怒りに紅潮し、青い瞳は炎のごとく輝いている。
「そのような女を相手にしていると、苦労するだろうな。碇」
「いえ。そんなことはありませんよ」
 シンジは彼の言葉を軽く受け流した。アスカも、彼がそう言うと、激発することも出来なかったらしい。ただ目だけで、キールを威圧してくる。それを気にせず、キールはシンジの方ばかりを見ていた。
「それよりも、です。どうして、あなたは、僕達に会いたいと、そう思われたんです?」
「どうせ、老い先短い命。我は全てを賭けた計画をしくじった身。一度は、その計画を倒した者達の顔が見たかったというだけだ」
「はんっ、偉そうにっ!所詮は軟禁された身でしょうが!」
 アスカが美しい唇を軽く歪めて、言い放つ。
 その通りだった。彼はNERVに生かされていたのだ。ゼーレという組織を根絶するために、情報を提供させられた。再起の意思を失った彼は、知る限り全てのことを話した。そして、今もまだ生かされているのは、NERVにとって彼にまだまだ利用価値があるというだけのこと。未だ、キール・ローレンツの名が畏怖を込めて語られる世界もある。彼が生きているということは、様々な意味での牽制にもなる。
 与えられた生を、キールは諾々として受け入れている。これが敗者の末路だ、と。ある意味、殺されるよりも辛いことだが、もはやキールにとって、生きるも死ぬも変わりのないことだった。
「アスカ、落ち着いて」
「シンジはどうして、そんなに落ち着いていられるのよっ!」
 声を荒げるアスカ。どうやら自分は嫌われているようだ、と察するキール。
 彼女にとって自分が、ドイツ人ということが許せないのかもしれない。彼女の中の血の半分はドイツ人のものであるし、また多くの時間を過ごしたのが、ドイツだということもあるかもしれない。
 まあ単純に、敵だからというだけかもしれんが。キールはそう心の中で呟いて、自嘲する。
「そんな嘘にいちいち、怒ってられないよ」
「ああ、そう……って?」
「ほう……」
 碇シンジが肩をすくめて言った言葉に、部屋の空気が変わった。アスカは困惑した顔になり、キールはその顔に笑みを浮かべた。
「どうして、嘘と思う?」
「どうしてと言われても、何となく、としか」
 言ったシンジが一番、緊張感のない顔をしている。だがそれが、本心を表しているのか、キールにもつかめなかった。だから笑みを浮かべながら、用心深く彼を観察している。
「ふむ、まあいい。では、お前達はどうして、私に会おうと思ったのだ?」
 キールは話題を変えて、彼の表情を探った。
「聞きたかったんです。どうして、サード・インパクトを起こしたかったのか。そのことを」
 姿勢を正して、シンジははっきりとした声で尋ねる。
「何故か?簡単だよ。人が行き詰っているからだ」
 キールは答えながら、膝の上で手を組み、轟然と胸をそらす。
「戦争と平和。繰り返されるその流れの中で、人は進化してきただろうか?確かに、進歩はしたかもしれない。言葉を手にし、文化を築いた。だが、それで人間の本質が変わったか?いや、何も変わっていない。変わろうとはしなかった。だが変わらずにいるということは、世界の真意から外れている。我々は、進化しなければならなかったのだよ」
「そのために、サード・インパクトを起こそうとした、というの?」
 嫌悪感をありありと見せるアスカ。だがキールは全く怯むことなく、
「その通りだ。我々は決して、人類に害を為そうとしていたわけではない。むしろ、人類の行く末を憂いていたのだ。人類がこのままでは、いつか崩壊する。それは、不完全なる心が、互いを理解できずに、殺しあう末路か。あるいはこのまま、根腐れを起こして滅びるか。いずれにせよ、生き延びることは出来ん。だからこそ、人は、進化しなければならなかったのだ。存在そのものを、変質させねばならんかったのだ」
 そこで、彼は言葉を切る。そして、ゆっくりと視線を動かし、二人を見つめる。黒い瞳は茫洋として意思を映さず、青い瞳は困惑と怒りが炎となりて揺らいでいる。
「我々は全ての人間を救うことを願っていた。一部の人間だけが生き延びる世界ではない。人として生きし者はすべからく、サード・インパクトにより完全なる一つとなり、補完される。そこには、新しい世界が築かれる。それこそが、人類の理想の世界。太古より人が求めし、約束の土地……その筈だった」
 キールの顔が、徐々に赤く、そして赤を通り越して紅色に染まる。アスカは戸惑い、シンジは……何も言わずに、彼を見つめるばかり。
「それをっ!貴様らがっ!そして忌まわしいあの女と、碇の輩がっ!」
 アスカが再び、銃に手を伸ばそうとするが、シンジの手がそれを留める。彼女が見ると、シンジは軽く首を振って、アスカを座らせる。
「なるほど、わかりました」
 いっそ、穏やかと言っていいほどの落ち着きをもって、シンジが言った。アスカはその横顔を、不安げに眺めている。
 肩で息を付いていたキールは、一度、大きく息を吸って、呼吸を整える。そしてシンジの方を見る。
「フッ……だが所詮は、負け犬の遠吠えだ。貴様らが勝ったことで、人類はやがて、死の床につくことになろう。我は先に逝きて、貴様らを待とうぞ」
「なーに、言ってんのよっ!!」
 激しく反発したのは、紅茶色の髪の少女。席を立って、腰に手を当てて大きく胸を張り、彼に人差し指を突きつける。
「そんなに簡単に、アタシ達は滅んだりしないわっ!させるもんですかっ!少なくとも、このアタシが生きているうちはねっ!!ううん、例えアタシがいなくなったって、アタシは人が滅びるなんて、決して許さないんだからっ」
「アスカの言う通りだと、僕も思います」
 静かに続く少年の声。
「あなたは、人は、人を理解できないと言った。それは確かにそうかもしれません。だけど、僕には、僕のことを理解してくれる人がいます」
 立ち上がったシンジの顔を見つめるアスカ。いつしか、二人は寄り添うように立つ。
「それはもしかしたら、僕の勘違いであるのかもしれません。理解して欲しいと願う、僕の望みが生んだ幻覚かもしれません。確かに人は不完全だから、自分の心しかわからない。いや、自分の心を自分でわかっているかどうかだって、怪しいものだと思う」
 ちらり、とシンジはアスカに視線を送る。それだけで、アスカには、彼が何を指しているのかわかった。自分達が、芽生えた互いへの好意に気付かずに、ただ傷つけ合っていただけのあの時のこと。
「でも僕は、それでもいいと思うんです。何でって、僕は、僕の大事な人のことを理解しようとしているから。一生かかってもわからないかもしれないけれど……でも、そうしようと思ってる。それが、心が繋がっていることよりも劣っていると、はっきりと言えるんでしょうか?」
 シンジは言って、アスカの手をぎゅっと握り締めた。その手から伝わるぬくもり。体と言う楔を離れて、心を一つにしてしまえば……このぬくもりはきっと、感じられない。
「一つになることが、進化だと、僕は思いません。もしそうだとしたら、僕はそんな未来は拒否したい。僕は僕でありたいし、それに、愛する人には、僕の愛する人であって欲しい。一つになったら、僕は僕でなくなる。愛する人と心を一つにする、というのは、その愛する人と違う人間だから素晴らしく思えるだけで、もし本当に一つになってしまえば、きっと、愛なんて感じなくなる」
 もし、隣の少女と、心を一つにしてしまえば。きっと自分は、愛していたことを忘れてしまう。自分と言う存在が消えてしまうのだから。それに、何の意味があるというのか。
「フン……親と似たようなことを言いおるわ」
「そうですか?まあ子供ですからね」
 照れたように笑うシンジ。だが彼はすぐに、その笑顔を引っ込めて、
「それじゃあそろそろ、おいとまさせていただきます。もう十分でしょう?あなたも」
「待て、最後に聞かせろ」
 扉へと向かいかけていた二人は、ゆっくりと振り返る。
「貴様、私の言葉を、嘘、と言ったな。その理由を言ってもらおうか」
「そのことですか?」
 シンジはアスカと視線を交わす。
「アスカも、もうわかってるでしょ?」
「ええ、もちろんよっ!さっき、わからなかったのが恥ずかしいわ」
 華やかに笑う少女。そして、彼女はその目をキールに向けた。
「キール・ローレンツ!アンタがアタシ達と話したがった理由、それはね、寂しかったからでしょう?」
 彼の目が大きく見広げられた。
「な、何をバカなっ!」
「いいえ、否定したって無駄よ。アンタは人類を救うだの、人の進化だのと御託を並べても、結局は、人に近づけないだけの臆病者よっ!拒絶されるのが怖くてねっ!だからこそ、今だって、敵であるアタシ達としか話すことが出来ないのよ。敵に理解なんて、求められないからね。そんな寂しさに耐えられなくなったから、人類補完計画なんてものを考え付いたのよっ!」
 アスカの言葉を受けて、シンジも口を開く。目に揺るがない光を輝かせて。
「あなたは、いつかの僕と同じだ。僕ももしかしたら、あなたのようになっていたのかもしれない。人に拒絶されるのが怖くて、人を拒絶していた。でもいつも寂しいと思っていたんだ。僕を見て欲しい。そう願っていた。そして、見てもらえないことを、他人のせいにしていた。だけど、違ったんだ。皆、僕を見てくれていた。僕が気付かなかっただけなんだ」
 キールの虚ろな目を、シンジの視線はとらえて離さない。
「あなたは、気付かなかった。きっと、あなたの側にもいたはずなのに。あなたを見てくれている人が、必ず。だけどそれに気付かなかったあなたは、自分が変わることではなく、他人を変えてしまおうとした。そのために、あなたは人類補完計画なんてものを考え出したんだ」
「バカな男。結局はね、寂しがり屋の一人よがりだったのよ。アンタのやってきたことはね。人は、あんたが思ってるほどバカでもないし、不完全でもない。もし一人で不完全なら、補い合えばいい」
 アタシが、シンジを支え。シンジが、アタシを支えるように。心の中でつぶやいて、彼女は彼の手を握り締める。このつないだ手は、永遠の一瞬。
「あなたは人を不完全なものだと蔑んでいるけれど、一番、不完全なのは、あなただ。だからこそ、誰よりも補完されたがっていたんだ。誰かと心をつなげたかったんだ。本当は、あなたが望み、変わることが一番大事だったのに」
 自分が、そしてアスカが変わったように。
 彼は思う。
 傷つけることも、傷つけられることも恐れ、逃げていた自分。
 人を傷つけることでしか、自己の存在を確かめられなかったアスカ。
 二人は互いに、傷つけあいながら、自分達の心に気付いていった。相手のことを、激しく憎いと思ったこともあった。消し去ってやりたいとまで思うことも。だがそうやって、ありのままの心をぶつけたからこそ、二人は変われたのだと思う。今ではアスカのことを、胸を張って、絶対に必要な存在だと言える。多分、アスカも同じ。
「あなたはただ、寂しかっただけなんです。きっと自分でも、気付いてなかったんでしょうけれど」
「そうそう。自分でそれを認められなくて、他人が悪い、世界が悪い、そう思い込んでたのよ、アンタは。アンタの不幸は、たまたま世界を変えられるだけの力があったことね。そして、アタシ達を敵に回したこと、かしら」
 キールはうつむいて、二人の言葉を聞いているのかどうか、わからなかった。
 しばしの沈黙を挟んで、やっと、キールがうめくように言った。
「もういい。失せろ」
「言われなくてもッ!」
 颯爽と身を翻す少女と、軽く一つだけ頭を下げてから、彼女の後を追う少年。
 二人の姿が部屋から消えても、キールはただ、うなだれてばかりだった。


「見直したわよッ、シーンジッ!」
 アスカが声をかけると、シンジは不思議そうな目を返す。
「え?何が?」
「よく言ってやったじゃない。いつかの弱気なシンジとは、全然、別人みたいだったわよ」
 言って彼女は、シンジの腕をとり、抱きかかえる。
「それにアイツ、まだ未練があったみたいよ。人類補完計画に。だからこそアタシ達に、人類の愚かさがどうの、とかって話をして、そそのかそうとしてたのよ」
 だが、二人はそれを完全に拒絶した。そこで初めて、彼は自分の敗北を悟ったのだろう。負け犬、と自分を蔑んだのは、それを認めたくなかったから。
「そうだね。でも……僕があの人に言ったのは、本当のことだと思うんだ」
 シンジは立ち止まって、一瞬、辺りに視線を回してから、アスカの体を抱きしめる。
「ちょ、ちょっと、シンジッ」
「あの人は、本当に、僕の未来の一つだったと思う。アスカと出会ってなかったら、僕はきっと、こんな風に笑っていられなかった。あの人のように、自分ではなく、他人が悪いんだと思い込んでただろうね。そんな時に、あの計画を聞かされたら、僕もきっと、賛成してたと思う」
 耳元で小さく、弱々しげに語るシンジ。抱きしめられた手が、少しだけ、震えている。
 アスカは、彼の背に腕を回し、強く引き寄せる。
「そうなってたら、アタシが止めてあげたわよ。それに……シンジは、そうならなかった。それでいいじゃない」
「うん……本当に、アスカと出会えて良かった……」
「フフ……バカシンジ。アタシもよ……」
 自然と近づく唇。
 もう何度目になるか、わからないそれだが、いつでも新鮮に思える二人だった。
 口付けを交わすたびに、互いの心が近づいていく。交わっていく。そして、相手の存在を、確かなものだと感じられる。

 だから、二人は、幾度も唇を寄せ合う。
 飽きることなど、あるはずがないのだから。


「あらあら、見せ付けてくれるわね〜」
 甘美なキスに夢中になっている二人は、壁の影から覗いているユイの存在に、全く気付いていなかった。
 思ったよりも時間がかかるので心配になって、屋敷に入ってきたのだが。
「心配する必要なかったみたいね」
 胸を撫で下ろして、そっと顔を隠す。
(あの二人がいれば……ううん、あの二人のように、人が愛し合うことを忘れなければ……人は、大丈夫よね?)
 人は確かに、愚かな道を選ぶこともある。もしかしたら、キールがいつか語ったように、滅びへと邁進していくだけかもしれない。
 だが、それでも。
 人は心を持つ。不完全で、揺らぎやすいが故に、支えあうことを必要とする心を。欠けた部分を補うがために、やむことなく求める心を。
 人類補完計画もまた、不完全なる心を埋めるための一つの方法。完全なる一つになれば、しかし、人は人でいられなくなる。
 溶け合う心は、人を壊してしまうだけ。
 きっとそんな方法は、間違っていると、ユイは思う。
 人が補完される必要があるとしたら、それは人の姿、心を持ったままでなければならない。なぜなら、それこそが心の望むところだから。
 人の姿を捨て、人の心を捨ててまで、一つになったところで、何があろうというのか。
 結局、人は、あるがままのこの姿のままで、心を満たす方法を見つけていかなければならない。
 その答えは、とても簡単なこと。


 それは、人を想い、そして、想いを受け止めること。


 いつまでも抱きしめあう二人を見ながら、ユイは、彼女たちの未来が明るいものであって欲しい、と願う。
 そしてそのために。
 彼女はこれからも、戦う。
 この、現実と。
 







<後書き>

 ということで、ひとまずの終わり、です。
 ゲンドウ、冬月、キール。この作品を描きながら、ずっと、彼らは一体、何を望んでいたのか。それを考えていました。
 そうして感じたことを、この作品の中に詰め込んだつもりです。
 何度も言ったとおり、これはエヴァの一つの可能性の物語であり、私の願望の世界です。
 全ての人に幸せを。言葉にすれば簡単だけど、現実にはそういかないことの方が多いでしょう。だけど、それを願うことが、希望への第一歩ではないでしょうか?
 私はこの作品の中で、ご都合主義と謗られようと、全てのキャラに、それぞれの幸せを提示したつもりです。ゲンドウの翻意により、リツコは愛を失い、キールは計画の挫折を味わいました。しかし、そんな彼らにも、可能性があると思っています。自らの幸せをつかむための。
 私は、甘い人間です。エヴァという作品が好きですが、それ以上にキャラに愛着を持っています。彼らが幸せになれる、そんな世界を描こうというのが、私の書く動機になっています。現実は辛く、時としてひどいものですけれど、それを描くよりも、平和と幸福を書き綴ることが、私の幸せにつながっています。
 結局は、自己満足の世界だということは、十分、理解しているつもりです。でも、こんな私の作品からでも、何かを考えるきっかけになってくれれば、これほど作者冥利につきることはありません。
 こんな拙い作品に、えんえんと付き合ってくださって、どうもありがとうございました。
 そしてもしよろしければ、これからもこんなガラガラ猿にお付き合いいただけますよう、お願い致します。
 最後になりましたが、LASサイトにも関わらず、このような作品を掲載して下さった、ドラえぽん様の心の広さに、感謝しております。
 謹んで、この作品をドラえぽん様に捧げさせていただきたいと思います。
 本当にありがとうございました。

ガラガラ猿 拝

P.S.
 感想メールいただけると、なおいっそう、張り切って書いちゃったりする単純な者なので、よろしければ、一言でも送っていただけると嬉しいです。





あらためてシリーズを続けて読んでマジで感動しますた(´Д⊂
しっかりと一つの世界観を描ききっていてすごいなあ。ドラえぽんもこういう作品を書けるようになりたいです。
寂しさから逃げた人間の弱さ、そしてそれに立ち向かったアスカ様とシンジ君の強さ。キールの館での支え合っている二人の姿を見るとなにか嬉しくてたまりませんでした。人類補完計画なんかに頼らなくても、人は心を触れあわせる事が出来る事を二人が教えてくれたような気がします。

ガラガラ猿さん、ドラえぽんのネタふりからこんな素晴らしいシリーズを書いていただいてありがとうございました!

さあ、こういう作品をもっと読んでみたいぜヽ(。>∀<)ノうひょう!という方はガラガラ猿さんに是非ともご感想を!
あなたの感想から次の作品が生まれるかもしれませんよ〜(ニヤリ
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