| 右手左手シリーズ 「母なる者よ、我が子らにその願いを伝えん」 ガラガラ猿 |
その日、冬月が目覚めると、右手が碇ユイになっていた。
「うむ、これは不便だ」
「全くですわね」
困った顔はしてみせたものの、一度は想いを寄せた女性である。冬月の心は少し、浮かれたものになっていた。
「ところで、冬月先生」
「何かね、ユイ君」
「お話があるのですが」
「ふむ……まあそうだろう。ちょっと待ってくれたまえ」
日ごろの激務から解放され、久しぶりに家に帰ってきていた冬月。お茶の用意をして、和室の縁側へと運ぶ。家に戻れない日々が続いていたが、人を雇って定期的に掃除等をさせていたため、どこも塵一つなく清められている。
庭は、冬月が密かに自慢に思っている日本庭園。京都から庭師を招いて作らせたそれは、彼の数少ない趣味によるものだった。
「懐かしいですわね。よく先生が行かれていたお寺に、雰囲気が似ていますわ」
「わかるかね?NERVの副司令というのは、割合、高給取りでね。まあ使うあてもないので、こんな所に金をかけている。それでも、溜まるばかりなので困っているよ」
困ったように笑いながら、冬月は足を崩して座る。普段着代わりの和服は、制服と同じ濃い茶色。
「あら。これ、私がいつかの誕生日に、先生に贈ったものですわね」
「覚えていてくれたかね」
照れる冬月。彼女がよく似合う、と言ってくれたから、この色を好きになったことは、誰にも語ったことがない。そう、副司令の服の色も、これに合わせたのだった。
「忘れませんわ。とても、懐かしい」
「そうだな」
二人は静かに、庭を眺める。
いつかも、こんな風に時間を過ごしたことがあった。
それは、遠い遠い昔のことのように思える。だが彼の記憶に、明確に残っている穏やかなひととき。
「これで、鹿威しの音でもあれば、完璧ですわね」
「私もそう思うが、さすがにそこまでは、な。私は、この家におらんことの方が多いし。それに、庭師も言っておったよ。『ここにはいい湧き水がない。無理にと言われるならば水道水でも良いでしょうが、私はそれでは、この庭が完璧なものでなくなると思います』とな」
「そういうものですか」
「そういうものなのだろうな」
西洋文化のような、自然を改造して、人為的な庭を造るのではなく、あくまで自然と一体化し、なおかつ、世界を内包するという形で作られるのが、日本庭園。それならば、彼の言うとおり、無理に鹿脅しを作るよりは、自然のあるがままを表して欲しい、とも思う冬月だった。
「その庭師が、こうも言っておったよ。『あなたがおっしゃるお寺と同じ庭など、造ることは出来ません。もちろん、それが要望ならば造れないことはないでしょうが、それならば私以外の人間に頼んでください』。そこまで言われれば、任せぬ訳にもいかんだろう」
「つまりこの庭は、ここにしか出来ない庭、というわけですね」
「そういうことになるだろうな」
彼の目の先には、兵装ビルが並ぶ。無機質なコンクリートの塊も、この場所から見ると、それが人の営みの所業によるものでありながら、自然の一部のように錯覚される。それもおそらく、この庭が、緻密に計算された感性によって造られたものなのであろう。
「先生らしいですわね。こういう雰囲気を好まれるのは」
「古い人間だと、いつも笑われるよ」
苦笑する冬月に、右手のユイは微笑んで答える。
「それでも、新しいばかりが全てではない。そう思いますわ」
「当代きっての科学者に、そう褒められるのは不思議な気分だな」
「科学者だって人の子ですわ」
拗ねて頬を膨らませるユイ。大学時代に同級生から、からからわれる度にそんな顔を見せていた。幼顔の彼女には、何故かその子供っぽいしぐさがよく似合っていたのを、彼は思い出した。
「……それで、話というのは」
「もう、わかっておられるのでしょう?」
「……シンジ君たちのことだな」
左手の湯のみを置いて、彼は右手を自分の前に持ってくる。そこにいる碇ユイの姿に、何故か不思議と、違和感を覚えない冬月。
「ここに現れた時から、もうわかっておるよ。君の望みは、人類補完計画の破棄……そうだろう?」
「さすがですわね、先生」
その言葉に苦笑する。いつかも、よく聞いたフレーズ。冬月は、自分が彼女に全く及ばない凡庸な才覚の持ち主でしかないと思っていたので、彼女からそう言われるのは面映いばかりだったが、ユイは師である彼に、決して敬意を欠かしたことがなかった。
実際には、その敬意がもどかしくもあったのだが。
冬月は心密かに、ユイに懸想していたが故に、それが彼女と自分の距離を表している、そう感じていたのだ。
「あの子達を残して、消えたのは自分です。あの時は、良かれと思ったのですけれど……結果的に、ゲンドウさんを惑わせることになってしまいました」
悲しく歪むユイの顔に、冬月はかける言葉の一つも見つけられなかった。
遠くで蝉が泣いている。それは一週間という短い命を儚いものだと憂いている声。物悲しいそれは、冬月の心を揺らす。
「私を責めるがいい、ユイ君」
沈黙を破ったのは、冬月の声。その声は沈んでおり、力ないものだった。
「私ならば、止められたかもしれん、ゲンドウを。だが私は、止めようともせんかった。功利と私情に走ったのだ」
「いいえ、冬月先生。あなたがいなくても、あの人は、決して止まることなかった、そう思います」
「……そう思うかね?」
「ええ」
はっきりと首を縦に振るユイ。その顔からは、微塵の揺らぎも感じられない。
「よく、わかっているのだな」
「妻ですから」
さらり、とユイが放った言葉が、冬月の心を刺す。だが彼は、それを面に出すことはなかった。
「ただ……シンジのことについては、私も間違っていた、そう思います」
「……あれは、君のことを慕うあまり、息子に回すべき愛情を忘れてしまったようだな」
「はい……」
ユイは、微かに目を落として、睫毛を震わせる。
「ゲンドウさんは、確かに息子を愛していました。いいえ、今でも愛していると思います。ただ、不器用だから、それを表す術を持たないだけ」
冬月は、何も言わない。それに関してだけは、彼は彼女と意見を異にしている。
碇ゲンドウ……当時は六文儀姓だった彼と出会った時、冬月はこの男とはそりが合わない、と思ったものだった。どこか人を愚弄したような目、氷のように冷め切った態度、口元に浮かぶ傲慢な笑み。
碇ユイが、彼のどこを気に入り、人生を共にしようと思ったのか、全くわからなかった。
だからこそ、結婚し、家庭を持ち、さらに息子が生まれたことで起きた彼の変貌は、冬月にはとても意外に思えたものだった。険がとれ、柔和な微笑を浮かべるようになった。もっとも、それは家族に対してだけであったが……
このまま家庭を保ち続けることが出来たなら、彼はその本質から変わったことだろう。
だが、碇ユイは消えた。あまりに早く。
一週間の失踪の間に、何があったのか、冬月は知らない。だがたったそれだけの期間で、彼は元に戻ってしまっていた。そう、必要なモノのために、全てを切り捨てることの出来る男に。自らの望みのためとあらば、己を含む世界をも賭けることの出来る、物騒な男に。
それはゲンドウという男の本質そのものだった。
だからこそ、彼が、息子を人に預けると言い出した時、ごく当たり前のことだ、と思ったのだ。息子とはいえ、ゲンドウにとってシンジは、最早、他人でしかないのだろう。
碇ゲンドウの家族とは、ユイという存在を核にしたもの。シンジの存在は、おまけに過ぎない。そう冬月は見ていた。
「クスッ」
自らの思いに取り込まれていた冬月は、目の前の碇ユイが、口元に手をあてて笑ったことに気付いて、現実へと帰還する。
「何がおかしいのかね」
「いえ、冬月先生が考えていることが、何となくわかったものですから」
「…………」
「あの人は……ゲンドウさんは、冬月先生の思っているような人ではありませんわ。もっとも、ほとんどの人がそう思っているようですけれど」
「……そういうものかね?」
「ええ。人の印象なんて、当てにはなりませんわ」
「君がそう言うのならば、そうかもしれんな」
確かに、ゲンドウが家庭的な面を見せたことは、冬月にとって意外だった。だが人は、持つことのない意識を、表すことは出来ない。ゲンドウが見せた表情は、おそらく彼の中に、確かにあったものなのだろう。ただそれを、余人は見抜けなかっただけで。
それをただ一人、感じ取ったのが、目の前の女性、碇ユイだった。引き出すことができたのも、また。
「私と会うことで、彼が変わった……そんな傲慢なことは言いません。でも、あの人が、ここまでのことをするとは、思いませんでした。そういう意味では、私もあの人のことを全部、わかっていなかったのかもしれません」
「君にわかっていなかったなら、誰にもわからなかったさ」
「いいえ、冬月先生はわかっておらっしゃったのでしょう?」
ユイの言葉が、彼の心に重く沈む。確かに彼は、ゲンドウの本質を見抜いていた、とも思う。彼女がいなくなれば、彼が元に戻るであろうことも、わかっていたはずだ。
「……すいません。愚痴になってしまいましたわね」
「いや……確かに、私はあの時、間違っていたのだろう」
ゲンドウのことを、どこか気に入らない、そう思っていたからこそ、彼はユイと彼のことを話すのを避けた。それはおそらく、ユイが彼のことを話す時に見せる特別な表情に、彼が嫉妬していたからだった。また、その本質を彼女に語ることで、讒言していると思われるのも嫌だったのだ。
「勇気のない男だよ、私は。どこかでそれを少しでも用いていれば、このようなことにならんかったのかもしれん」
振り返れば、彼の人生は流されるばかりだった。ほんの少しでも、自分から事を起こそうとしていれば、変わっていたのかもしれない。
ユイに想いを告げていれば。ゲンドウの本質である性格を、ユイに告げていれば。妻を失ったゲンドウが暴走しようとした時、それを止めていれば。
転機はいくらでもあったはずだった。だが彼は、己の保身と、現状の維持を望むがあまり、一歩を踏み出すことが出来なかったのだ。
「そんな……誰も冬月先生を責めはしませんわ」
「いや、私は卑怯な男だよ。自分が出せなかった勇気という感情を、子供達に出させようとしている」
ゲンドウとユイの息子である碇シンジ。そして彼の古い教え子である惣流=キョウコの娘、惣流=アスカ。彼らをエヴァに乗せて、死地に赴かせている。
「そして私は、弱い男だ。流されるままにこの地位につき、己の望みをかなえるために動きながら、どこか、誰かに止めてもらうことを望んでいる」
人類補完計画、そしてそのためのサード・インパクト。
人類が一つとなる、それは夢。形而上生物学を学び、修めた彼は、科学者としての彼は、人の進化の果てを見てみたいいう願いに取り憑かれていた。そして、一人の人間としての彼は、一つになることで、想いを寄せた女性に会うことが出来る、そんな欲望を持っていた。
だがそんな自分を、自らの心の一部が許していないことにも気付いていた。
「結局は、小心者なのだよ。人類と言う多くの命を左右するなど、畏れ多いことだと考えている自分がいある。私一人ならば、人類補完計画などと大それた野望を持つこともなかっただろうな」
だが彼は、出会ってしまった。その野望を持つことの出来る男に。彼はその男の危険性に恐れながらも、惹かれていったのだ。自らの持ち得ない部分を持っていたから。そして冬月は、彼に従うことを決める。責任をとることのない立場に立って、彼をサポートした。
幸か不幸か、彼の能力は、そのような立場に立ってこそ、もっとも輝くものだった。
振り返れば、大学時代、彼がもっとも輝かしい業績を上げたのは、教授になってからではなく、助教授時代の研究でであった。教授になってからの彼は、己の立場を守ることに汲々となり、研究がおろそかになってしまった。大学の中での立場、というものに興味を示さないふりをしていたのも、誰かと正面きって争うのが嫌だったのだ。
研究にしか興味のない人間。そう思われることに腐心する余り、本来の研究がおろそかになる。本末転倒な自分を、彼は一人、自嘲していたものだった。
「たとえそうであったとしても、私にとって、先生は偉大な方でしたわ」
碇ユイが、慈母の笑みを浮かべながら彼に語りかける。
「よしてくれ。私は、人に尊敬を抱かれるような人間ではないよ」
「そんなことはありません。でも……先生がそうおっしゃるのなら、私も、こう申し上げたいと思います」
彼女の顔が一変した。優しい笑みは消え、芯のある、強く厳しい表情。貫かれるかと思わんばかりの視線に、冬月はたじろぎながらも、吸い込まれるように目を離すことが出来ない。
「冬月先生、いつまで逃げておられるおつもりですか?」
喉が、いっぺんに渇いた。手元に湯のみがあるが、彼はそれを取ることが出来なかった。いや、それどころか、動くことすら出来なかったのだ。冷たい汗が、背中を流れる。何か物を言おうとした口は、一瞬、開いたがすぐに、また閉じられる。
ユイが表情を和らげるまで、彼はまばたきすら忘れてしまうかのような、緊張に包まれていた。
「すいません。僭越なことを申しました」
「いや……かまわんよ」
かすれた声で、彼は答える。そして湯のみを取って、一口。ぬるい茶が、彼の喉を潤して、落ちていく。彼の中に。
「君の言うとおり。私は逃げていた」
勇気を出さないことでも、流されるままであることでもなく。
彼はその意思において、ただ逃げ続けていたのだ。自ら選択することを放棄し、己の生き方を選ぶことを拒否した。
問題は、それを自分の生き方だと思っていたこと。
勇気がない、卑怯、弱い。そんな自分をわかっていながら、変わろうとしなかった。ユイにそう語ったのも、どこかに、そう言うことで、自分で自分をわかっている、と伝えたかったのかもしれない。そして、憐憫を抱いて欲しかったのかもしれない。
自分を貶めることで、自分を正当化する。いつからか彼の生き方は、そうなってしまっていた。そして正当化することで、周囲の評価からも逃げていた。
全てにおいて、彼は逃げるばかりだったのだ。これまでの人生において。そしてそれを、自分の生き方だと、思い込もうとしていた。
「シンジが」
ユイが目を伏せて、言葉を紡ぐ。その音色ははかなく、消え入りそうで、だが彼の耳にはしっかりと届いていて。
「初号機に乗っている時に、強く思っているんです」
「…………」
無言で、冬月は彼女の言葉を促す。
「『逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ』って」
「シンジ君が……」
何と言うことだろう、と冬月は思う。当たり前だ。少年はまだ、十四歳の幼さ。それが得体の知れない物に乗り、得体の知れない敵と戦う。そしてエヴァを降りても、彼の周囲には、同じように、いや、それ以上に得体の知れない大人ばかり。
逃げたくもなるだろう。実際に、行方をくらましたこともある。
だが彼は、逃げずに、ここにいる。戦うために。自分の居場所を探すために。
それに比べて、自分の何と卑小なことよ。
(いや、もうそう思わんことにしよう)
暗い思いを振り払って、彼は誓う。幼き少年すら持ちうる勇気。少年はまた、彼が想いを寄せた女性の実の息子でもあるのだ。その彼を守るべき立場にあるはずの自分が、他人の思惑に流されて、彼を利用しようとしていた。
ここで彼と同じく戦わずして、どう少年に、そしてその母に顔向けできようか。
「私も、逃げてばかりではいかんな」
呟いて、彼は目を上げる。そこには、ユイの優しい笑顔があった。
「結局、先生を焚きつけてしまいましたわね」
「何を言う。そのために現れた癖に」
ユイは照れたように笑った。やがて、彼女の姿が少しずつ、ぼやけていく。白い、光に包まれて。
「行くのか」
「はい。ゲンドウさんと、シンジ達のこと、よろしくお願い致します」
「わかった。どうせ老い先短い命だ。これまでの借りを返すためにも、全力を尽くそう」
「ありがとうございます」
ユイが、ゆっくりと頭を下げる。
その瞬間、彼は悟った。自らがこの女性に惹かれていた理由を。
(母を……母の姿を重ねていたのだな)
その姿は似ても似つかない。
だが、彼女は常に、聖なる母だったのだ。
母性を具現化した女性。それが、碇ユイ。
「やっと私は、母の手を離れるということか……」
目覚めた時、彼は自室の布団の中で、涙を流していた。一瞬、余韻にひたりたいと思った彼だったが、すぐに体を起こす。
彼は誓ったのだから。もう逃げない、と。
NERVの制服を身にまとった彼は、ふと、思いついたように、電話の受話器を取った。
「もしもし?私は、冬月コウゾウというものだが……」
碇ゲンドウも同じ日に、夢を見たらしい。
髭を剃り、サングラスを取った彼から夢の話を聞かされた冬月は、碇ユイという女性の存在に、改めて尊敬の念を抱いた。
「それで髭を剃ったというわけか……」
もっともそれ故に、話を終えた彼に返した言葉が、やや間の抜けたものになってしまったが。
一番の難関だと思われていた碇ゲンドウの説得を、ユイが行ってくれていたために、彼ははっきりと、心を決めて、事にあたることにした。逃げるつもりは毛頭なかったが、ゲンドウに諦めさせるのは、至難の技だと思っていたし、時間がかかることだと思っていたから。
(ここまで舞台を整えてもらったのだ。必ず、成し遂げねばならんな)
ふと、彼はいつからか忘れていた言の葉を口にする。
「なせばなる、なさねばならぬ、なるわざを、ならぬとしつる、ひとのはかなき」
日本の武将が説いた教えは、少年時代の彼に大きな感銘を呼び、事あるごとに口にしては、自らを奮い立たせていた。それをしなくなったのは、いつ頃だろうか。
思い出した教えを胸に、彼は立つ。
「なせばなる、か……そうなのだろう、ユイ君」
「お邪魔します……」
「こんにちはっ!」
「……入ります…………」
「よく来てくれたな。まあ上がってくれたまえ」
対ゼーレの計画が進み、何とか冬月の毎日に余裕が出て来たある日、彼は三人の子供達を、家に招いていた。突然の招待に驚いていた彼らだったが、明らかに以前と違う冬月の様子に何かを感じたのか、それに応じてくれた。
三人を迎える彼が身にまとっているのは、ユイから贈られた和服だった。
「わー、すごい綺麗な庭。日本文化って感じ!」
「本当だ、すごいや」
「…………綺麗」
NERVにいる時からは想像できない冬月の姿に驚いていた彼らは、縁側に招かれて、二度驚くことになった。そこに広がる庭園は、彼らが初めて実際に見る日本庭園だったからだ。
「これ、副司令の趣味なんですか?」
紅茶色の髪の少女が、彼を軽く見上げて尋ねる。その姿が、いつかの彼の教え子のそれに重なる。それは冬月にとって、新鮮な思いだった。彼女のことを、セカンド・チルドレン、弐号機のパイロットとしてしか見ていなかった自分。だが今は、惣流=キョウコの娘であり、守らねばならない存在だと思っている。
「ああ、そうだ」
「…………あの音は何?」
コツーン
聞こえてくる音に、澄んだ空の色の髪の少女が言葉を出す。碇ユイのクローンであり、ゲンドウ達の計画の道具として生を受けた少女。だが今は、違う。一人の人間として、守ってやらねばならない。そう、ゲンドウと冬月の二人は心に決めている。
「もしかして、鹿威しですか?」
控えめな声で、冬月に問いかける少年。碇ユイの面影を残す彼は、線が細く、一見、女性のようだ。彼もまた、計画の要であった。守ってやらねばならない存在であることに、代わりはない。だが、心の持ちようを変えるだけで、これほどまでに人は違って見えるのだろうか。軟弱で、弱々しいと思っていたのが、今は、優しさに溢れた、人に気遣いの出来る少年だと思える。
「ああ、そうだよ。よく知っているな」
「テレビや古い映画で見ましたから」
照れくさそうに笑う少年。そんな彼に、優しい視線を向ける二人の少女。そんな三人の姿を見るにつれ、自分が何を見ていたのか、と思う。こんな幼い少年達を、自分達の都合に振り回そうとしていたのか。
冬月達は罪を犯してきた。それはもっと大きな罪を行う前では、小さなものに見えたから。だが我に返り見てみれば、その罪はとても大きなものだった。
だが、彼はもう、そのことをしっかりと受け止めている。そして、残りの人生を、贖罪にあてることを決めたのだ。自分のような咎人がなすべきことは、未来を彼らに残してやること。逃げることはもう、許されないと思っている。
「まあ、水道水を引いたものだがね。自然のままの湧き水が一番良いらしいが」
碇ユイとの刹那の邂逅の夢を見た後、彼はすぐさま、庭師の元へ電話をかけた。この、鹿威しを庭につけてもらうために。
意外にもあっさりと、彼は引き受けてくれた。口論になるかもしれない、とすら思っていた冬月は、正直拍子抜けしたものだった。
後日、彼がそのことを庭師に尋ねると、彼はこう言った。
『庭ってのはね、一つの世界なんです。海があり、山があり、そして空がある。だけど所詮、人が作ったものなんです。人の意思ってのが働いてる。何故なら、その世界には、人がいることを前提に、人が見た世界を作ったものなんですから。確かに私は、この庭に鹿威しは必要ないと言った。だけどそれは、私にとっての完璧な世界なんです』
軽く言葉を切って、茶をすする。間を置かず、彼は再び話し始めた。
『この庭は、確かに私にとっては完璧な世界だ。けど、この庭の持ち主は、冬月さん、あんただ。だからあんたが鹿威しがあってこそ、完璧だと思うのなら、それがいいんです。ここはあんたの世界だ。自然と一体、なんて御託はいらない。所詮、凡人は自然と一つになんてなれやしないんだから。ならば精々、己の中の世界を、作り上げればいい。それぐらいで、自然は怒ったりしやせんよ。自然ってのはね、懐が深いんだ。そう思いませんか、冬月さん』
ここでも冬月は、自分が流されていたのだ、と知った。人の望む完璧な世界を受け入れて、自分の望むものを押し通さなかった。そのことを、彼は見抜いていたのだろう。庭師と冬月は、年もそう大差ない。老人と言われてもよい年頃だろう。だが彼と、自分の間には、広く差が出来ている、冬月はそう思った。
『またいつか、こうして話してみたいですな』
『私なんかで良ければ、いつでも遊びに来させてもらいますよ。この庭は、自分でも気に入ってるんです。鹿威しを付けたからって、魅力は少しも変わりません』
えらそうなことを申しました、と笑う彼のことを、冬月はまぶしそうに眺めたのだった。
三人が庭に出て歩いているのを眺めながら、冬月は彼との会話を思い出していた。
「人は自然と一つになれない、か……どうしてそれで、人同士が一つになれようか……」
呟いた彼は、自分の望んでいた夢が、いびつなものだった、と結論付ける。
人類補完計画。人の手で、人類にさらなる進化を引き起こし、一つ上の舞台へと人を導く計画。
だが人は、まだその段階に来ていない。進化が起こるとすれば、それは人が本当に、そう望んだ時だろう。必然としての、進化。それを、一部の人間のエゴで引き起こすことなど、世界への冒涜ではないか。
今となっては、彼はそう思うばかりだった。
「それで、今日は、どんな御用なんですか?」
庭を見て回ったことで、少しリラックスしたらしい。入ってきたときほどの緊張感は、三人から消えていた。
「その前に、足を崩してくれて構わんよ。惣流君など、正座に慣れておらんようだからな」
顔を赤らめる少女。先ほどからもじもじとしていたが、言われると恥ずかしいらしい。
畳じきの和室に、檜の長机。冬月も、彼らと対面するようにして座っている。冬月は、自分から足を崩してあぐらをかいた。
「ささ、君達も、楽な格好をしてくれたまえ」
「はい、じゃあ遠慮なく」
少年はあぐらをかき、蒼い瞳の少女も、足を伸ばして座る。制服で来ていたから、さすがにあぐらをかくことはためらわれたらしい。もう一人の少女は、言われても足を崩さなかった。綺麗な姿勢に、冬月は眦を下げる。
「君達を招いたのは、まあ、色々と、話をしたかったんだ」
「NERVでは話せないような話ですか?」
少年達の顔に緊張感が走るが、冬月は笑って首を振る。
「それがない、とは言わんが、何、老人の思い出話に付き合ってもらおう、というところだな」
「思い出……ですか?」
「そうだ。特に、君達の母親の事など、な」
息を飲んで目を開く二人。一人、表情を動かさない少女もいたが、
「レイ、おまえ……いや、君にも話がある。それこそ、色々とな」
その言葉に、瞳を揺らす。探るような目つきで彼を窺うが、冬月の目に浮かぶ優しさに気付いたのか、言葉に出しては、何も言わなかった。
「後で、碇……いや、ゲンドウ君も来ることになっている。彼からも話を聞くといい」
「父さんが……来るんですか?」
今度は、少年の目に動揺が走った。一瞬、体を引いたのは、怯えたせいか。
冬月が口を開けようとして見ると、隣に座る少女が、彼に心配そうな目を向けている。その視線に気付いたのか、彼は一度、そちらに顔を向けた。交わる、蒼い瞳と黒い瞳。少女の手が、少年のそれに重ねられると、彼は軽く握り返して、微笑みを向けた。
(そういういことか)
一人ごちる冬月。そして、二人の間に生まれている、他人の入り込めない雰囲気を、微笑ましく思う。
もう一人の少女は、どこか悲しげな、しかし慈しむような瞳で二人を見ている。その光を見て、冬月は驚きと、そして安堵を感じた。
(心を覚えたのだな……レイ)
胸の中に溜まっていた澱が、少し落ちる。彼女が覚えたのは、悲しい想いかもしれない。だが、それでも、彼女に生まれた心に、その感情はきっと糧になるだろう。
「まあ、ゲンドウ君が来るまでは、私の昔話に付き合ってもらおう。いいかね?」
『はい、喜んで』
期せずして重なる声。空色の髪の少女も、一つ、こくりと頷いて。
「さて、どこから話そうか……そうだな、まずは……」
彼は話し始めた。彼と、二人の母親との出会いを。そして、彼女達と過ごした時間のことを。
それは贖罪と言うには、あまりに小さいことなのかもしれない。
だが二人にとってそれは、ほとんど記憶にない母親のことであり、真剣に、何一つ聞き逃すまいと集中して聞いている。無表情に見える少女も、その視線を冬月の顔からそらさないところを見ると、しっかりと興味を抱いているらしい。
つらつらと、思いつくままに語る冬月。
それはやがて、過酷な戦いに赴くことになる三人に贈ることの出来る、彼にとって唯一のもの。
だから彼は、精一杯に、語り続ける。
彼女たちの想いを。母親達が、子供に託した願いを。自身で伝えることの出来なかった、多くの言葉を。
彼は語る。
彼女たちに託されたから。
彼は語る。
彼女たちのために。
彼は語る。
自らのために。
そして、未来を託さんとする、少年と少女のために。
彼は、語る。
全ての、思い出を。
<後書き>
私が冬月マスターへの第一歩を踏み出した、記念すべき作品です(笑)。ドラえぽん様にいただいたこの称号、お気に入りなので、自称しています。
ちなみに、私は庭に関しては素人なので、この作品中で庭師や冬月が言っていたことは、全て私の想像でした。
>こうであれば良いな、ってドラえぽんも思っていた世界を見せて貰った気がします。
>この右手左手シリーズでの一つの世界観がここに集約されてる感じがします。
>なんかものすごくこの後の彼らが気になってきました。この世界はどうなっていくんだろう?
この作品に寄せていただいた、ドラえぽん様のコメントです。
考えているうちに、私も気になりだしました。そして、未熟な腕なれど、作り出したこの世界の行く末を書いてみよう、と思うようになりました。エヴァの、一つの可能性として。
この時点で、「右手左手シリーズ」のスタンスがだいぶ定まってきていました。
大人達は一体、何を考えていたのか?何故、人を補完しようとしたのか?補完されることで、何を望んだのか?キーワードとなるのは、「人類補完計画」でした。
となると、必然的に、次のターゲットが定まります。そう、「人類補完計画」の要となる、残りの一人の人物です。
そして生まれたのが、次の物語です。
『心に灯る光、その名は』
| エヴァって実は逃げ続けた大人達の物語だったのかもしれませんね。 そしてそれに巻き込まれた子供達は本編では逃げているように見えましたが、今考えると大人達と比べるとギリギリまで逃げてはいなかったように感じます。だから最後の最後に壊れてしまったんでしょうね(´Д⊂ もしも大人達が逃げるのをやめていたら・・・そんな世界をこの作品でみせて頂いた気がします。 冬月の変わりゆく心が庭園という小道具を使って非常に良く表現されてて素晴らしいです。うーん、ウマイなあ。 アスカ様がシンジ君を心配して手を握り合うシーンなんかも良いッスよね〜(・´д`・ 短編としても非常に面白い作品でした。ガラガラ猿さん、ありがとうございます! 次回、ついにこのシリーズの完結編です。この世界は一体どうなってゆくんでしょうか?楽しみですね〜(^ ^ さあ、早く続き読みてえぜヽ(。>∀<)ノうひょう!という方はガラガラ猿さんに是非ともご感想を! ガラガラ猿さんへのご感想はこちらへお願いします。 または感想掲示板へもお気軽にどうぞ。 ガラガラ猿さんにはまだまだ投稿掲示板にも作品を頂いております。こちらも要チェックです。 |
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