シンジは、腕時計に目をやった。その時計の革バンドは、手垢で汚れ、少し古びた感じ
がするが、痛んでいるところはどこもなかった。それから察するに、どれだけ大事に使わ
れているかがわかる。
シンジは、その腕時計を見るなり、母親のことを何時も思い出す。そして、シンジは少
し物思いにふける顔をした。それは、海の満ち引きに似ている。ひとたびそれが満ちると、
それ以外のことが考えられなくなる。現に、約束の時間まで後何時間だったかを調べるつ
もりで見たのだが、それさえも忘れ、銀色に縁取りされた部分が光る時計に魅入っていた。
――母さん。
シンジの瞳が鈍く光る。そんな時、「シンにぃ、今何時?」と言うレイの声に、母の海が
引いて行った。
「あ、……後約束の時間まで一時間ぐらいだから、歩きながらそこに向かおう」
シンジは笑みを漏らしながらレイとカヲルに言った。
アスカの顔を紅潮させていた。それは、シンジが有名なマエストロ”碇ゲンドウ”の一
人息子と知ったためだった。しかしそれ以前にもアスカはシンジに惹かれていたのは確か
だった。だが、今はその感情よりも、ゲンドウの息子と言うことが、彼女の心を満たして
いた。それは、あの時の朝に感じたものよりも大きいものだった。
信じられないほど興奮してるなと、歩きながら時折鏡に映る、自分の顔を見つめてはそ
う思った。そして、シンジのこれまでの過去を勝手に想像した。
やさしい父親と母親。この想像は、ゲンドウが作曲する全ての曲に共通する、”優しさ”
のイメージのためだった。
それから想像したのは、アスカがこれまで手にすることのできなかった、”優しい家族”
の理想だった。
一つのテーブルを囲んで、談笑する家族。その中央には、母親が腕によりをかけて作っ
たおかずの数々。そして、子供の語りかけに優しい微笑を浮かべて頷く両親。
その全ては、アスカが手にすることのできなかった、理想の家族だった。
だが、それを振り払うように、『シンジ君……お父さんのこと憎んでるのよ』と言うミサ
トの一言が、彼女の頭に反響した。そのため、自分の抱いた間違った想像を振り払い、目
を落とした。
――もしそうなら、そういったことはないじゃない。
顔を鏡に向けると、先ほどとは似ても似つかないアスカの顔があった。
――……似たもの同士なのかもしれない。……私たち。……でも、私のほうがまだまし
か、親は健在だもの。
アスカは鏡から顔をそむけると、少し自嘲した。
ff(フォルティッシモ)
第九楽章
〜過去:2〜
十七年前
グラスが砕け散る音が振動となり、幼子の張りのいい肌に触れる。幼子はそれにびくつ
き、身体を硬直させる。そしてゆっくりとグラスが飛んだ方向に顔を向けた。
そこには顔の赤い男が、幼子の方を向いて罵声を叫んでいた。それは空気を震わせる。
彼女の瞳に怯えの色が見えた。それは、男が立つと同時により濃いものになった。男が
近づくにつれ、その色は顔にも映り、血色のいい幼子の顔に陰りを作り、年齢より老けこ
んで見えた。
男は、幼子の側まで来ると、握り拳を大きく振り上げる。
幼子は反射的に頭をかばい、目を閉じた。
その瞬間、彼女を温かく包むものがあった。
――ママ!
肉の響き、骨の軋みが幼子の身体に伝わる。彼女は声を上げようとした。が、声がでな
い。
母親は幼子の雰囲気が伝わったらしく、痛みを絶え、顔に微笑を浮かべて、「大丈夫よ、
アスカ」と静かに呟いた。
――ママ! ママ! ママ!
叫びたくとも、叫べない。だが、それは雰囲気となり伝わった。
「……大丈夫よ、アスカ」
それから数年後……。
母親は、アスカの手を引いて男のもとを去った。そして、見知らぬ土地で、見知らぬ男
と知り合った。
「アスカ、あたら……本当のお父さんよ」
微笑を浮かべながら、母親は呟いた。見知らぬ男も、同じように微笑を浮かべ、ゆっく
りとアスカの目線に顔を下ろした。
「初めまして、アスカちゃん」
とても優しい声で、そして温かい微笑で男はアスカを向かえてくれた。
彼女は母親の足元に顔を隠し、ゆっくりと男の方に顔を向けた。そして、ゆっくりと紙
切れを男の手に渡した。
――ママをいじめない?
母親は、とても幸せそうだった。その笑顔は、これまでアスカが生きてきた中で、見る
ことのできない笑顔だった。その時から、彼女は何時も母親の作った子守唄を母の傍らで
聴いた。とても安心できて、とても悲しい曲だった。幼いアスカでもそれがわかるほどの
音の表現だった。
「……どうアスカ?」
母親は最後まで引き終えると、アスカの方を見た。だが、彼女の傍らには静かに寝息を
たてるアスカの姿が目に映った。その寝顔を見て、彼女は微笑んだ。
「さあ、アスカちゃん」
母親は、優しくアスカを送り出す。
だが、アスカは一向に母親のスカートから離れようとしない。泣きじゃくりながら、彼
女はスカートの中に顔をうずめていた。
母親は、そんなアスカを諭すよう、腰を目線の高さまでに落とした。そして、ゆっくり
と喋り出した。
「……アスカちゃん、もし音楽をやりたいんだったら、他の子たちともお話しなきゃ」
――私、お話できないもの!
アスカは大きなリアクションで手話をする。それを見て、笑顔で母親は話し出した。
「……大丈夫よ。ここはの皆は、アスカちゃんと同じ人たちなの。それに、アスカちゃん
よりも酷い人がいるのよ」
――本当?
「ええ、本当よ」
これ以上ないほどの笑顔で母親は言う。そして、ゆっくりとアスカの肩に手を置いた。
「……ここで色々経験して、凄くいい女性に、音楽家になりなさい」
肩に置かれた手に力でこもる。
アスカは、そこから母の強い思いが伝わる。
――……わかったわ、ママ。
少し寂しそうな顔で、アスカは母親に話しかけた。
母親はそれを見て微笑みかけると、ゆっくりとアスカの肩から手を離す。
「がんばってね、アスカちゃん!」
――お名前は何?
手話で一人の、そばかすまじりの少女が話しかける。
アスカはぎこちない動作で話しかけた。
――……声は聞こえるから、手話じゃなくても大丈夫よ。で、あなたは?
「あ、そうなんだ。私の名前は洞木ヒカリ!」
ヒカリは元気のいい笑顔でアスカに話しかける。その笑みに引かれて、アスカも無邪気
な笑みを漏らす。
――私は、惣流・アスカ・ラングレー。アスカでいいわ!
「私も、ヒカリでいいよ、アスカ!」
ヒカリはそう呟くと、彼女の温かい手が、アスカの手を握り締めた。
雨が降り注ぐ。それは緩やかで優しくアスカの周りに降り注ぐ。そんな中、彼女は傘も
ささずにたたずんでいた。風邪も引くのも恐れず、彼女はその中にたたずんでいた。
「……アスカ」
一人の男が、優しくアスカの肩を抱きしめる。それに触発されたように、アスカの肩が
震え出した。
男は無言で、雨にも濡れながら彼女を抱きしめた。
「……すまない、すまないアスカ」
男の声がくぐもる。辛そうに、哀しそうに。
そして、アスカは声の出ない喉で、男の胸で泣いた。
『凄くいい女性に、音楽家になりなさいアスカちゃん』
『がんばってね、アスカちゃん』
――……なんで昔のこと思い出すんだろう。
アスカは苦笑いを漏らした。
「どうしたんだ、アスカ」
加持は立ち止まっているアスカに声をかける。
彼女は加持の方に顔を向けると、なんでもない、という笑みを漏らした。そして、ゆっ
くりと歩き出した。
シンジたちは、待合場所につく。そこは、人々がごった返し、春なかばというのに、熱
気で蒸し暑い。背中に汗が流れ、シャツがまとわりつく。
「ねえ、シンにぃ……あのことも言うのかな?」
不意にレイがシンジに話しかける。
シンジはそれを聞いた時、顔を曇らせ、少し目を細めた。何時もは見られない、彼のき
つい表情だった。
「僕は、絶対に受けない!」
大声で彼は言う。そのため、周りにいる人々がシンジたちの方に顔を向ける。レイは、
その声に驚き、シンジの顔を見つめたまま固まった。
「何で、何で、何で僕がアイツの意思を……!」
シンジは周りにいる物をかまわず、声を上げる。
が、「シンジ君!」と、カヲルがシンジの前に立ち、止めに入った。
「……落ちついて、シンジ君」
カヲルは優しく声をかけると、シンジの肩に優しくてをおいた。それに少し落ちついた
のか、シンジは肩から力を抜く。
「……落ちついたかい?」
「……あ、うん。……ごめん、カヲル君、レイ」
陰りのあるきつい顔が、何時も通りの顔に戻る。その表情を見て、レイも緊張を解いた。
「……いいよ、シンにぃの事、お母さんから聞いてるから」
レイはけなげに笑みを漏らした。
「……僕も少しは知ってるよ、シンジ君」
カヲルも笑みを漏らす。
そのため、シンジもゆっくりと微笑を漏らし、「ありがとう」と、もう一度呟いた。
アスカは、大きな時計柱を指差しながら、加持たちの方を見た。その顔には笑みが漏れ
ている。
そして、ちょうど時計の塔は、八時の鐘を鳴らした。
続く
後書き
かなり遅くなって、すいません(__)
課題やらなにやらで……^^;
つたない作品ですけど、これからもよろしくお願いします(__)
ではでは
7月7日
スティーブンキング著”ミザリー”を読みながら
うう、アスカ様ったらまたつらい役回り..。( T - T )いやん というわけで、TODOさん9曲目ありがとうございますー。\( > 0 < )/ひさびさ〜 うーん、この感じだとアスカ様はシンジ君の過去を全て知ってしまったわけでは無さそうですね。 それにしても、アスカ様の過去はなかなかヘビーですね。 ところで、回想の終わりのほうのオトコは何者でしょうか。うーむ( - _ -;)おのれい(笑) さあ、新たな事実も持ち上がってきて面白くなってきました。 |
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