Rambler

第三話 風会

Author  TAKA

 

 

 

 

 

ざわめく校庭、集う人達。

 

そこには同じ歳に生まれ、同じ時の流れを生きてきた少年少女達が集まってきていた。

 

それまで会った事のない人達、これまでに会った事のある人達、あるいは一緒にいた人達。

 

それぞれの表情、それぞれの気持ちで今この場に臨んでいる。

 

それはあるいは運命というものなのであろうか、それ程までに大仰ではなくても何かの縁で今それまでに別々のところで等量に訪れていた時間を過ごしてきた者達がこれから同じ場所で生活を分かち合っていこうとしている。

 

それは大切な事なのだろうか、それともただの偶然の一言で済まされるものなのだろうか。

 

ある人は言った、きっかけは大した事のないものなのかもしれないが、そこで手にしたものは一生の宝物になるだろうと。

 

そう思うのもそう思わないのも今そこにいる少年少女達がそれぞれにこれから決めていくのだろう。

 

二度とはない高校生活という人生の中でも最も輝いている時をそこで過ごしていく中で…。

 

はしゃぐ声、喜ぶ声、期待に胸膨らませている声。

 

様々な声音、様々な感情、そのどれもが一様に明るいものであり、一点の曇りも染みもない。

 

これからの彼等の未来を示しているかのように、見渡す限り空は青く澄み渡り、その姿の全てを見せている太陽は満面の輝きを放ち、彼等の高揚している心の中にはそれが象徴であるとでもいうように何の懸念も不安もなく、期待と希望という光り放つものしかなかった。

 

暖かく柔らかく降り注ぐ陽射し、薫る空気の流れ、和やかに交わされる子供達のやりとり…。

 

新入生出入り口、校庭のすぐ傍にある玄関の前にはクラス名簿が張り出されていた。

 

それを前にして築き上げられた同じ制服を身に纏った少年少女達による人垣、人の群れ。

 

それぞれがそれぞれに相方と一緒に、あるいは一人でその掲示を目にして、一喜一憂している。

 

喜んでいる者は望みの相手と一緒になれた事、そうでないものはその逆といったような感じであった。

 

どちらにしても、その場にいる者全てに明るい表情が浮かんでいる。

 

その賑わいから、掲示板から少し離れた所にアスカはいた。

 

校庭の端の木立の許に、寄りかかって佇んでいる。

 

僅かに俯き、地面に目を向けて、揺れる髪も気にせずそのままに。

 

すぐ傍にある喧騒に加わる事もなく、意識を向ける事もなく、目を向ける事もなく、ただ静かにそこに佇んでいる。

 

アスカの心はここにくるまでの事を思っていた。

 

ヒカリから離れるようにして駆け出した後、ここにくるまでにそれなりの人達とすれ違った、追い越してきた。

 

アスカの意識はそれらの人達に向けられる事は無かったが、何人もの、彼女と同じと思われる新入生、生徒達が振り返った。

 

そんな事もアスカの目には映らなかったが、中には露骨に視線と意識を向けてきた者もいた。その自分に向けられた意識にはアスカは気がついた。

 

好奇、羨望、感嘆、嫉妬。

 

それら様々な感情の産物が彼女に向けられてきた、いや、注がれてきた。

 

自分にまとわりつく様々なもの、這い回るような視線、アスカは悪寒がして鳥肌がたった。

 

それはもしかしたら意識過剰というものなのかもしれないが、アスカにはそうとしか感じられなかった。また、実際にそうだと言いきれるものも中にはそれなりに混じってもいた。

 

アスカはそれに過敏に反応していた。それはもしかするとそれに含まれている、それを送ってくる者の自分に対する意図のようなものを肌で感じているのかもしれなかったが、アスカにとってはどうでもいい事だった。自分が感じたもの、それが全てであった。

 

気がつけばアスカはここにいた。人気のないここに、一人でいられるここに。

 

心が動いた訳ではなかったが、身体は勝手に反応していた。それを静めるためにアスカはそこで少しの時を過ごす事にしていた。

 

「(…やっばりこない方が良かったかな…でも部屋にいても仕方ないし…)」

 

アスカ自身、身体の示した反応はともかく、その事について特にどうとも思ってはいなかった。それが本当なのかどうなのかは別にして、心が動くような事はなかった。

 

「(…まあ…別にどうでもいい事だし…好きにすればいい…あいつらも…私も…)」

 

そう心の中で呟くとアスカは思うのを止めた。正確には思う事が無くなったといったところだろうか。

 

心は虚しくなり、面には何も無くなる。

 

そうした時に誰かが近づいてくる気配がした。

 

「ア〜スカ」

 

少し強めに呼びかけてくる声、アスカはそちらの方に顔を上げた。

 

「酷いじゃないのよ、一人で先に行っちゃうなんて」

 

その強い口調とは裏腹に笑顔を浮かべたヒカリがそこにいた。

 

アスカは一瞬無表情のままヒカリの事を見つめるが先程の事もあったのであろうか、来てくれた事が嬉しいかのようにして、こうして触れ合える事が嬉しいかのようにして僅かに表情を和らげて微笑みを浮かべる。

 

「…うん」

 

こんな時のアスカは本当に綺麗な笑みをみせてくれる、ヒカリは自分までもが嬉しくなってしまうのを感じずにはいられなかった。

 

それは仮初めの事かもしれない。しかし、もう少しこうしていたいという思いからか心とは裏腹の行為をとる。

 

「うんじゃないでしょ、うんじゃ。私がどれだけ…」

 

そう言ってヒカリはアスカの肩に手を差し伸べるが、アスカは軽いステップを踏んで跳ねるようにしてそれをよける。

 

ヒカリがアスカを見ると少し離れたところでアスカは変わらぬ微笑みを浮かべていた。

 

悪戯っぽく、小首をかしげて、少し肩を竦めて、ヒカリをその蒼氷色の瞳で見つめている。

 

それを目にしてヒカリは心が満たされるような気がして、でもやはり拭い切れない寂しさを心の片隅に残して、今この時を大切にしたくて、アスカを追いかける。

 

「待ちなさいよ、もう、許さないんだから」

 

アスカは声をたてる事はなかったが、それでもその表情から微笑みが消える事はなかった。

 

まるで踊るように、舞うようにして追いかけてくるヒカリをかわしていく。

 

もしかしたら、アスカ自身も今はこうしていたいと思っていたのかもしれない。

 

何もなくても、何も持たなくても、今この時だけはこうしていたかったのかもしれない。

 

陽光の中、戯れるようなヒカリとアスカのその姿はいつまでも続くようにも見えた。

 

まるで祝福されるように二人の少女は陽射しの中に照らされていた。

 

しばらく二人はじゃれるように戯れていたが、それぞれの心で同じように願ってはいたものの時は流れていき、ヒカリの言葉によってそれは終わりを告げた。

 

アスカは少し残念そうな顔をしたが、二人は連れ立って掲示板の前へと向かって行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やった、アスカ。また一緒のクラスになれたね」

 

そう言うとヒカリはアスカの手をとって小さく飛び跳ねる。

 

アスカはヒカリに手をとられて少しの間驚いたような表情をしていたが、ややあって嬉しそうな表情を浮かべた。

 

小躍りするように嬉しそうにはしゃぐヒカリとただ黙って手を取られているだけのアスカ。

 

二人の様子はまるで対照的であったが、そこに浮かべている表情は、程度の差こそあれ同じ気持ちからきているものであった。

 

喜んでいるヒカリを心持ち目を細めて柔らかい表情で見詰めていたアスカであったが、ふと視線をそらして掲示板の方を見る。

 

そうした時、アスカの表情はそれまでのものとは一転した。

 

一瞬、大きく瞳が見開かれ、次の瞬間には睨みつけるように細くなる。

 

ギュッと眉根を寄せて僅かに顎を引いて、まるで何かをねめつけるような表情になる。

 

固く結ばれた唇からは微かに何かを擦りあわせるような音がした。

 

アスカは視線の先にある一点を凝視してその状態のまま動かなくなった。

 

それまで自分と一緒に嬉しそうな表情をしていたアスカが急に表情を固くして動かなくなった事にヒカリは少しの間戸惑った。

 

アスカは何気なく視線を動かして掲示板の方を見てからそうなった。一体どうしたのかと声をかけてみるが、答えは何も返ってこない。

 

ヒカリには一体何がどうしたのか分からなかったが、アスカの視線の先に何かがあるのかと思い掲示板とアスカの顔とを交互に見比べながらそれを追う。

 

幾度かそれを繰り返した後にヒカリの視線も固まった。

 

 

シンジ

 

 

そこにはそう書いてあった。

 

アスカとシンジの間に何があったのかヒカリはよく知らない。

 

しかし、アスカはシンジの事が話題の端にでものぼろうものなら、途端に今のような表情になった。たとえそれがどんなに些細なものであっても、程度の差こそあれ、少なくともいい表情はしなかった。そう、ちょうど今のように。

 

疎開で別れる前のアスカはあまりいい状態とは言えなかった。

 

自分の家に泊まり込み何日も学校にも行かずにテレビゲームだけをしていた。

 

思いつめたような表情で、ほとんど何も喋らず、ただ黙々とコントローラを操っていた。

 

信じられない変わりようだった、太陽のように明るく聡明な彼女を何がそこまで追いつめたのか。

 

 

…ヒカリ…アタシ…勝てなかった…エヴァで…

 

 

アスカはそうポツリと言った。

 

ヒカリはただ一言だけ言った。

 

 

…アスカの好きにすればいいと思う…アスカはよくやったと思うもの…

 

 

それしか言わなかった。いや、言えなかった。

 

アスカがエヴァに乗っている事、それはヒカリも知っていたがそれ以上の事は何も知らなかった。

 

ただ、アスカやシンジが使徒と呼ばれる正体不明のものからこの街を守っているという事は知っていた。

 

自分の身を呈してこの街を、自分達を守ってくれている…。

 

だからヒカリはそう言った、そうとしか言えなかった。

 

アスカの事もほとんど知らない、何をしているのかもほんの少しだけしか知らないヒカリにはそうとしか言えなかった。

 

そして、数ヶ月前に再会した時の事。

 

あの時よりは回復したように見えたアスカにヒカリは若干の安堵をした。

 

しかし、それはすぐに過ちだと気がついた。アスカの状態はもっと底辺の方で安定してしまっていたのだ。その心に負ったものを、ヒカリは感じずにはいられなかった。安定しているから、回復したように見えてしまったのだ。

 

アスカの見せるシンジの事への反応…。

 

ヒカリはアスカとシンジの間に何かあったと知らざるを得なかった。傍にいれば嫌でも思い知らされた。

 

いつも沈んでいて弾む事のない心。今のように多少良い状態の時でもシンジの事に話題が触れるとすぐにこのようになった。あるいは、完全に心を閉ざした、感情を殺した。

 

だからヒカリとしては極力シンジの事には触れないようにするより他には無かった。何かを聞き出すなどとんでもない事であった。

 

あまりにも危険だった。今のアスカの状態そのものにも危ういところはあったが、それ以上にシンジについての事になると今にも壊れてしまいそうな危険な感じがヒカリにはしていた。

 

「あ、アスカ!?。もうすぐ入学式始まるだろうから、そろそろ…」

 

ヒカリはアスカの方を振り向いて焦ったような口調でそう言いかけたが、その言葉は途中で消え入るように途切れていった。

 

あまりにも硬質な感じ、溢れる感情。

 

今のこの時ほどアスカが危うく感じられた事はヒカリにはなかった、これまでの付き合い全てを通して。

 

何かほんの僅かのきっかけでもあればその場で跡形もなく壊れてしまいそうな、そんな感じを受けずにはいられなかった。

 

ヒカリには何も言えない、込み上げてくるものを必死になって抑えながらただアスカを見詰める事しかできなかった。

 

あの時と違い何もない、自分と何も変わる所の無い、同年代の少女、友人、親友。

 

あの時ヒカリとアスカの間には隔てるものがあったが、今は何もない。等身大の自分達として付き合っていける、ヒカリはそう思っていたし、事実、二人はそうして付き合っていた。

 

だから、今はあの時とは違い、自分にも何か言える事がある筈、言えるのではないのかとヒカリは思っていたが、事実はそうではなかった。

 

あの時の事がまだアスカを縛り付けている、自分達の間を隔てている、自分に何も言えなくさせている。

 

ヒカリにはただ願う事しかできなかった、祈るような気持ちでいる事しかできなかった。

 

ただひたすら、今のこの時にアスカがどうにかなってしまわないようにと想っている事しかできなかった…。

 

「…ヒカリ…」

 

どれだけの時間が過ぎたのか、ヒカリにとっては永遠ともいえる時の後にアスカが呟くようにして呼びかけてきた。

 

「な、なに?、アスカ」

 

ヒカリは努めて何気ないように答えるつもりで失敗した。その言葉の端々には震えるような響きがあった。

 

「…校舎の周り…見てこよう…」

 

アスカはそれだけを言うと、ヒカリに語り掛ける時には俯いていた視線そのままに、入学式の会場である体育館とは反対の方に歩き始めた。

 

ヒカリはアスカに呼びかけるがアスカはその歩みを止めようとはしない。そのまま人垣の脇を通り抜け、人の流れに逆らって、人気の無い方へと歩み去っていく。

 

「アスカ、待って!」

 

ヒカリはアスカに少し強く大きい声をかけるとその後を追うようにして小走りに駆け出した。

 

それは今ヒカリ自身が感じている不安や恐れを打ち消そうとしたからなのかもしれない、何もできない自分に情けなさを感じたのかもしれない、いつまでも自分の過去に囚われ続けているアスカに苛立ちを感じたのかもしれない。その何れかなのかはヒカリ自身にも分からなかった。

 

ただ、今のアスカを独りにしておく事はできなかった、純粋に感性の部分で恐怖を感じていたのかもしれない。考えるよりも先に声がでて足が動いていた。

 

二人が過ぎ去った後には、変わらぬ人の流れが続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠くに喧騒とざわめき、人の足音の聞こえる人気のない裏手。

 

表側の賑わいとはかけ離れて静かな、校舎が未だ昇りきらぬ太陽の陽射しを遮り自身以上の大きさの影を地面に投げかけているそこ。

 

どことなく陰鬱とした、人の存在感の無い場所。

 

シンジはそこで困ったような顔をして周囲に視線を巡らせていた。

 

「まいったな、もうすぐ時間だって言うのに…」

 

シンジはその言葉通りの表情で一人ごちる。

 

シンジの住んでいる場所は今彼がいる所から十分とかからない所にある。逆に言うとこちらから来る方が学校の正面に回るよりも近いという事で裏手の方から来たのだろうがどうやら迷ってしまったようだ。

 

元々不慣れな上に地理感も悪い事から、さほど複雑な構造もしていないのにシンジは自分が今どこにいるのか見失ってしまっていた。

 

しかし、人の気配が全くしないという訳ではなく、校舎を挟んだ反対側からは多くの人達がいるであろうざわめきが聞こえてくるので、困ってはいるがどうにもならないという感じはシンジ自身してはいなかった。

 

ただ、入学式が始まる時間というものもあるので多少は焦っている、そんな所であろうか。彼の几帳面な性格の事、時間的にはまだまだ余裕があるのだが気にせずにはいられないのだろう。

 

シンジ自身のつもりとしては自分のクラス割りを確認しておきたかったし、どこか時間までに行かなくてはいけない所があってその途中でもたもたしているというのは嫌だった。さっさとそこに着いて気分的にも落ち着きたいというのもあったであろう。

 

「とりあえず、壁伝いに回っていってみるかな…こんな事なら最初から正面の方からくればよかった。急がば回れ、なんてね」

 

シンジは仕方ないという感じで足を動かし始める。

 

と、そこに傍らから声をかけられた。

 

「あら、君、こんなところで何をしているの?」

 

シンジがその声のした方に目を向けると一人の女子生徒が通用口から顔を見せていた。

 

おそらくというか間違いなくこの学校の生徒なのだろう、この学校の女子用の制服に身を包んでいる。

 

その少し大人びた口調、着慣れた感じの制服。少なくとも新入生には見えない、在校生なのだろう。という事はシンジにとっては先輩という事になるのか。

 

シンジは声をかけられた時に少し驚いたような表情をしたが、すぐにいつも感じに戻ってその女子生徒の方に向き直る。

 

「…あ、あの…」

 

向き合ったはいいが、どうしたの?、と言われてシンジにはどう答えていいか分からなかった。まさか正直に迷いましたと言うのは憚られたし、シンジには言えなかった。

 

少し俯いてなんとなく困ったようにしているシンジをその女子生徒はしばらく黙って見ていたが、ややあって好意的な笑みを浮かべて話しができる所まで近づいてきた。

 

「あなた、新入生でしょ?」

 

シンジが、えっ!?という感じで顔をあげると、そこには自分に微笑みを向けてくる少し年上の女の子がいた。

 

「…あ…はい…」

 

「やっぱりね。まだ制服になじんでいない感じだし、なんか君、かわいいもの」

 

「…そんなこと…ないですよ…」

 

シンジは何と言っていいのか分からないような表情をしていたが、それには少し憮然としたものが混じっていた。

 

シンジにとってその言葉がどいう意味を持っているのかは分からなかったが、そんなシンジの様子にその女子生徒は慌てて手をふった。

 

「ああ、ごめんごめん、気を悪くしたのなら謝るわ。怒んないでよ」

 

「…別に…怒ってなんかいませんよ…」

 

その言葉は自分の心とは反対の事を表すためにあるようなものだが、シンジの口調には本当にそういったものが込められていなかった。そこに込められていたのは虚しさと無感情であったが、それが相手にいらぬ気遣いをさせぬためのものであるかどうかは本人以外には分からない。

 

その女子生徒はシンジがその言葉を口にしている表情を少しの間みとれるように見詰めていた。それがこの少年の翳りとして感じたのか、そこに普通ではない魅力を感じたのか、シンジのすぐ傍に歩み寄る。

 

「ホント、ごめんね。なんだか気に障るような事言っちゃったみたいだから、お詫びに体育館まで連れて行ってあげる」

 

シンジはそんな女子生徒の言葉と行動に少し戸惑ったような表情を浮かべたがすぐに元の表情、どこか気のない表情に戻って少しの感情を込めてうそぶくようにして言う。

 

「…そんな…悪いですよ…」

 

「いいからいいから、まだ始業には時間あるから、いいでしょ?」

 

少し媚びを売るようなそのしぐさにシンジは軽い嫌悪感を感じた。

 

しかし、それと同時に自分に恣意的に近づいてくるその女子生徒に心動かされそうになっている自分にも気がついていた。

 

自分はどうしたいんだろう?。シンジは心の中でそんな事も思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アスカは俯いて歩いていた。

 

周囲の風景に目を向ける事無く、僅かに遅れてついてくるヒカリの事を気にかける事もなく、ただ黙として無言のまま歩いていた。

 

周りの様子を見る事もなく、何をその目にする事もなく、ただ、それまでにいた場所から遠ざかりたいだけのように。

 

何かに耐えるように、肩を怒らせたまま、全身には痛ましくなる程に力が込められていた。

 

その時、アスカの心は千々に乱れていた。

 

心臓をわしづかみにされたようで、それでいて今にも破裂してしまいそうで。

 

自分でも計りきれない、ざわめき騒ぎ立てる何かが心を、身体中を駆け巡っていた。

 

いつもは鏡のように静かな平板な心が、荒れ狂い激しく波をうっている。

 

シンジの事になるとアスカはいつも多かれ少なかれ感情を表していた、それが好意的なのものかどうかはともかく。

 

しかし、先程掲示板でシンジの名前を目にした後のアスカの心の動きはこれまでにないものであった。

 

これまでのどんな時にもこんなに心が動いた事はなかった。

 

これまでの場合には表情が変化し元々無口になっていたのが、全く喋らなくなる程度でその場から立ち去るような事はしていなかった。

 

自分がその事に関してはいい気がしないというのを態度で伝えるような事はしていたのだが、今回の場合にはそれすらもなかった。更に酷い拒否反応という事も言えるかもしれないが。

 

少なくとも今のアスカは表情を見せる事もなく、自分がそれに対してどう思っているのか態度で示す事もなかった。自分がそれを他人に伝える前に、知られる前にそうするのを、そうさせるのを封じてしまっていた。

 

何故そうしたのか、それは実のところアスカ自身にも分かっていなかった。

 

気がつけば足はその場から立ち去ろうとしていたし、ヒカリに声をかけたのも満足に覚えていない。

 

それは反射だったのかもしれない。シンジから離れなければならない、その思いだけがアスカ自身を突き動かしたのだろうか。少なくともアスカ自身、そう思ったのは間違いなかった。

 

ではその思いの根幹にあったのはなんなのだろうか、それはアスカ自身にも分からなかった。

 

今のアスカはそんな事を考えるだけの余裕はなかった。混乱しかけるのを、自分の中で荒れ狂う何かを、溢れそうになる何かをどうにかしようとするので精一杯だった。

 

 

…………。

 

 

何も考えられなかった。

 

自分の事、シンジの事、考えたいと願う自分を感じながらアスカにはどうする事もできなかった。

 

それを許してしまえば、為すがままにしてまえば、どうにかなってしまいそうで怖かった。

 

そうなってしまうのがアスカは嫌だった、許せなかった。最後に残っている矜持なのかもしれない。

 

シンジに対してだからなのだろうか、そんな意地を張るのは、張れるのは。

 

今のアスカは、少なくともこれまでのアスカとは全く違って見えた。その全身から発するものは、それがたとえどのようなものであったとしても、人のものであった。他のどのようなものも圧して余りある人らしい人のものであった。

 

シンジの事、シンジの名前、それはアスカにとってあの時の事を現す代名詞のようなものであった。

 

それはアスカにあの時の事を思い起こさせる、彼女から全てを奪ったあの時の事を…。

 

そしてそれは連なってあの時以前の全ての事にアスカを向き合わせた。忌々しい、刃物か何かで切り落とせるのなら自分の身を引き裂いてでも抉り出して踏みつけにしてやりたい、汚物、汚点。

 

捨て去ったつもりでもそこにある、決して消えない、どこまでもついてくる、自分の影。

 

なればこそ、アスカには許せなかった。それが簡単にやり直せるものであれば、取り戻す事ができたのなら、今の自分ではなかったであろうに。

 

どうしようもない事だとは分かってはいる。しかし、思わずには、願わずにはいられなかった。

 

だから捨てたつもりでいた。どうにもならない事だと分かっていたから。

 

冷めた目で見るようにしていた、気にしないようにしていた。

 

どんなに覆い隠したつもりでいても、そこにあったから。消したいと願っても、決して消す事のできないものだったから。

 

今アスカは少しでもいいから時間が欲しかった、今のままでは本当に自分がどうなってしまうか分からなかった。

 

少しでもいいから先延ばしにしたかった、少なくとも自分が自分でいられるようになるまでは。

 

今のまま、シンジの前には立ちたくなかった。少なくとも、自分の事を自分で推し量れるようになるまでは。

 

だからアスカの足は止まらなかった。少しでも時間が欲しくて、少しでもあの場所から離れたくて。

 

何かに衝かれたように、突き動かされているかのように、歩を進め続ける。

 

自分で自分を囲うように力を込めて、自分が外に消え広がらないように俯いて。

 

その時が来るのを、少しでも先送りにするために…。

 

アスカの中に、会わないという選択肢は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足早に歩き続ける二人。アスカとそれに合わせてついていくヒカリ。

 

他の何に気を取られる事もなく、ただそれ自体を目的としているかのようにして歩いている二人は校舎の側面を通り抜けようとしていた。

 

周囲の状況に気を向けていないアスカではあったが、その事に気がついたのか壁伝いに足の向きを変える。

 

そのまま進んでいくと校舎の構造上少し入り組んだ所に入っていった。

 

ヒカリは少し不安になったが、アスカの歩みは心持ちゆっくりになりはしたものの、止まろうとはしない。

 

さすがにヒカリは声をかけようとした、まだ不案内な学校の敷地内でこれ以上無目的にうろつけば迷ってしまうのではないかと思われたからだ。

 

二人の前に現れた幾度目かの曲がり角を曲がったところでヒカリはアスカに呼びかけた。

 

「アス…」

 

人の声が聞こえてきたのと、アスカが歩みを止めたのと、それは同時であった。

 

 

 

 

「…そんな…やっぱりいいですよ…」

 

自分はどうしたいんだろう?、そう自問した時にシンジは自分の中で決めた事、目指そうとしている事に気がついた。

 

それに思い至ったとき、少しでも心動かされそうになっていた自分が酷く恥ずかしくなった。

 

自分の中にあるもの、何もなかった自分に初めてできたもの、与えられたものではなく、自分で手に入れたもの、形作ったもの。

 

あの時のように曖昧に手にしたもの、押しつけられたものではなく、自分で始めて持った大切な事。

 

ほんの僅かの事、些細な事、でも自分にとっては譲れない筈のもの。

 

それを他ならぬ自分でどうかしようとしていた、自分の中の自分がそれを見たら何と言う事だろう。恥ずかしくもあり、自分に腹が立った。

 

それは拒絶なのかもそれない、拒否なのかもしれない。言いようの知れない恐怖、それが自分に向けられた時一体どう思うのだろうか、全身が粟立つような感覚をシンジは覚えた。

 

この人の事を傷つけるかもしれない、それによって自分が傷つくかもしれない、傷つけられるかもしれない。

 

嫌な事、怖い事、恐ろしい事。シンジはたまらなく嫌だった、そんな思いするのは絶対に嫌だった。

 

しかし、これは引き換えにしなければならない事。自分の大切なものを守るためにはしなければならない事。どちらが本当に嫌なのか自分に諮って決めなければならない事。

 

あの時もそうだった、日向に自分達の事、チルドレンの事を知らされそうになった時、それを断ったのは自分の中の大切なものを守る事が日向の好意を踏みにじるとしてもそうしたかったからだ。

 

結局、自分は利己主義者なのかとも思ってしまうが、それは受け止めるしかなかった。

 

もしかしたらもっといいやり方があるのかもしれないが、今のシンジにはそれが精一杯だった。それ以外の為しようがシンジには分からなかった。

 

それが何かを守るという事なのかもしれない、シンジは恐怖に怯える心で、それを紛らわせるためにであろうか、努めて冷めたような感じでそんな事も思っていた。そうでなければ自分の発した言葉に耐えられなくて逃げ出しそうだったから。

 

そのせいだろうか、その声も何かを押し殺したようなものになっていた。表情は心を隠すために、取り繕うようにどこか虚ろな儚いものになり、手はきつく握り締められ、震えそうになるのを抑えるために全身は堅く強張っている。

 

ただ、それ以上の事は言えなかった。はぐらかすための適当な言葉など、そもそもが言えないのだが、思いつく筈もなかった。今のシンジにとってはそれだけでも言うのが精一杯であった。

 

その女子生徒は、しかし、そのシンジの表情に何を感じたのか、今にも腕を取らんばかりに近づいてくる。

 

緊張しているのを可愛らしく感じたのか、どこか翳があるのが気に入ったのか、好意的な笑みを浮かべて下から覗き込むように見つめてくる。

 

「遠慮なんかしないの、先輩からの好意は素直に受け取っておくものよ」

 

今度こそシンジは追い詰められた。

 

他人からの好意と自分の中の大切なもの、そのどちらをとるのか、決断を迫られていた。

 

激しい葛藤がシンジの中で巻き起こる。その表情はそれまでのどこか自分を今の状況から切り離そうとしているものから、困惑しきったものに変わっていた。

 

そんなシンジの心中も知らずに、その表情が照れているものと勘違いした女子生徒は微笑みを浮かべながらシンジを見つめてくる。

 

ふと、シンジは気がついた。今自分に向けられているものがかつてあった押し着せるものと同じものだという事に。

 

それに唯々諾々として従っていた自分がどうなったか、そんな自分が一体何をしたか、そのせいで自分の傍にいた人がどうなったのか。

 

シンジの脳裏には一瞬のフラッシュバックのようにあの頃の光景が浮かんできていた。

 

そして、あの時の、最後の時の光景も、一人の少女の姿も。

 

そして、そもそも何故自分が迷っているのかにも気がついた。今自分の目の前にいる女子生徒からの申し出が自分にとって受け入れられるものならこんなに悩んだりはしないのだろうと。だからこそ、迷っているのだろうと。

 

迷い、それは未だにはっきりとしない自分の心のせい。シンジは自分の心を今一度見つめてみた、感じ直してみた。

 

それはやはりそこにあった、動く事なく、変わる事なく、揺らぎもしないで。

 

ざわめいているのはその周りにある余計な事だけ、それらも決して無視できるものではないが、シンジは今一度自分の中にあるもの、自分の事をかみ締めた。

 

「…すいません…ご好意だけ受けとっておきます…」

 

だから、そう言った。

 

少しでも気にされないように、無理矢理に表情を作って、少しでも柔らかく、でもどこか固く、やっぱり譲れないように、自身の感じているものを必死に押し殺して、余裕のない心で、かろうじて言葉を考えて、拒絶と謝罪の言葉を口にした。

 

それははっきりとした、きっぱりとした口調ではなかったが、譲れない、確かなものをその内に秘めていた。

 

その瞳は頼りなげにも、申し訳なさそうにもしていたが、相手の目に確かに据えられていた。

 

そんなシンジの言葉にさすがの女子生徒もそれ以上の無理強いはできないようであった。諦めたようにして一歩下がる。

 

「そっか、それじゃしょうがないね。これから校内で会う事もあるかもしれないけれども、その時はよろしくね、新入生君」

 

少し残念そうにしながら微笑みを向けてくる女子生徒にシンジは猛烈な罪悪感を感じて、思わずいつもの口癖が出そうになったが、ここでそれを口にすれば、ぶり返されかねないと思って慌ててそれを抑えた。かわりにただ一言、はいと答えた。

 

その女子生徒はシンジに背を向けて校舎の中に戻って行こうとするが、何かに気がついたかのようにして入り口で振りかえった。

 

「君、もしかして彼女持ち?」

 

シンジは突然の事に、えっ!?という表情になる。

 

「いやね、君って身持ち固そうだし、まじめそうだから」

 

シンジはその言葉にそんな事はないですよとうそぶきながら、それに触発されたのか、おかしな感情が沸き立ってくるのを感じていた。

 

それと同時に一人の少女の姿が脳裏に浮かんだ。

 

その瞬間、シンジの顔は真っ赤に染まる。

 

少し日焼けしていたが、元々色白のせいかそれはよく映えて見えた。多少離れていてもそれと分かるほどに鮮やかに染まっていた。

 

「あははっ、真っ赤になっちゃって、か〜わい〜」

 

そう言ってその女子生徒は校内に戻っていった。なんだ、売約済みか、という呟きを残して。

 

暫くシンジはその場に固まっていたが、ややあって顔の火照りも収まり、ふうっとため息をついた。

 

それまでの緊張から開放されたせいか、両肩を落として疲れたような表情をしている。

 

「…助かった…」

 

情けないと言わざるを得ないが、それがシンジの偽らざる本心であった。シンジ自身、自分の事を情けないと思ってもいた。

 

だがしかし、兎にも角にも自分の事は守り通せた、いささかの後味の悪さと微かな痛痒とを心に感じないではなかったが、何度も自分に言い聞かせてきたようにそれは仕方の無い事だと今度もまた自分自身に言い聞かせていた。

 

してしまった事は仕方が無い、後は流されるまま身を任せよう。そうした主体性のなさは彼の得意とするところであったから、そう思いこむ事にさしたる抵抗はなかった。これもまた情けないところではあるのだろうが。

 

ただ、かつてと違うところはそれを自分の意思をもってやろうとしているかそうでないかという所で、少なくともかつてとは変わっているという事であろうか。それがいいのか悪いのかは本人を含めたそれぞれによって見解が異なるのであろうが。

 

これまでの彼であったなら他人からの好意を拒絶した、その事に心を深く沈めてしまうところであったであろうが、今はそれよりも自分の決めた事を、秘めたものを守れた事が嬉しかった。

 

あの女子生徒の軽い感じもシンジの心の負担を軽くするのに一役買っているようであった。彼女はシンジの言葉にも、ああ、駄目だったか、という程度のものしか感じていないように見えた。少なくとも傷ついているとか、そんな風には見えなかった。

 

シンジとしてもそれを目にして、心で感じて、この程度の事なら誰も気にしないのかもしれないなと思うようになっていた。それはシンジにとって新たなる発見であり、新鮮な感覚をその心にもたらしていた。

 

思えばこれまで自分の周りには何も無かったか、大きすぎる事しかなかった、もしかするとこれが当たり前で自分はやっぱりどこかおかしなところがあったのかもしれないな、とも考えていた。

 

少し鼓動は速くなっていたし、手には汗が滲んでもいたが、それでも大きく心が乱れる事は無かった。そんな自分にシンジは少しは変われたのかなと心の中で思ってもいた。

 

「さて、と。思わぬところで時間くっちゃったな、そろそろ行かないと…」

 

そう呟いて視線を壁の途切れている方に向けた時、二人の人影がシンジの瞳に映った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザッ…

 

 

アスカは足を止めた。

 

まるでそこに何かあるかのように、そこが自分の目的としている所であったかのように。

 

角を曲がる時に何かを感じたのか、ここに至るまでにずっと俯いていた面を上げて、地面に注がれていた視線は何かを見ようとするかのように、導かれるようにして前を向いている。

 

アスカが目にしたもの、その蒼氷色の瞳に映ったもの。

 

それは、一人の少年…。

 

偶然だろうか、それとも何かの導きだろうか、ちょうどその時に、アスカの方へと向き直ろうとしていた…。

 

アスカにそれが、描き出されていく…。

 

その瞳にそのしぐさがスローモーションのようにゆっくりと流れていく…。

 

その姿が、顔が、その存在が、時の流れから外れたようにしてゆっくりとアスカの方に向けられてくる。

 

ヒカリの呼びかけがその場に響いた。しかし、それはアスカには届かなかった。

 

アスカは何かに突き当たったようにして動きを止めている。

 

ヒカリはアスカに視線を向けていたが、自分の呼びかけにも気がつく事なく、意を向けてくる事もないその様子に訝しげな表情をする。

 

アスカの視線を追ったヒカリの表情も固まった。

 

しかし、今のアスカにはそんな事はどうでもよかった。ヒカリの存在自体がアスカの中から消えてしまっていた。

 

自分に向けられてきたもの、その存在、それより他に何もなくなってしまっていた。

 

少年も自分がその場から立ち去ろうと視線を動かした時にその場に一人の少女が姿を現したのをその瞳に映していた。

 

向き直ろうとしていた動きはそのまま止められる事なく続けられる。

 

二人は、互いに向き合った。

 

視線が互いの間にある隔てを越えて届けられ、合わさる。

 

融けるように、それは触れ合い、絡み合い、一つになった。

 

色の異なる互いの瞳に、互いの姿が映し出される…。

 

 

ドクン

 

 

期せずして、申し合わせたように二人の鼓動は同時に一つ、高鳴る。

 

その時、二人の瞳には互いの事しか映っていなかった。

 

少年は少女しか、少女は少年しか、その瞳に映していなかった。

 

心の全ては、互いの事しかなくなっていた。

 

ただ無言で見詰め合う二人…。

 

明るく照らし出されている周囲の風景の事も、穏やかに過ぎ去っていく薫風の事も、辺りに響いているざわめきの事も、流れる時の事も互いに互いを見詰め合う二人には何の意味も関係も無い事になっていた。

 

今の二人にとっては、互いの存在、それ以外には何もなかった。自分とその瞳に映るもの、それ以外には何も存在しえなかった。

 

それを感じるように、今そこにいる、自分の前にいる、存在そのものを感じあおうとするかのように。

 

それがしたい事の全てであるかのように、それが自分の求める全てであるかのように。

 

今、アスカの表情はこれまでに見せた事のないようなものになっていた。

 

驚いたように、心奪われたように、望んでいなかったものをその目にしたかのように。

 

自身の全てを、心を露にしたかのように惑い、揺れていた…。

 

僅かに開かれた桜色の唇は、それと分からぬ程に小さく震えている。

 

蒼氷色の瞳は潤み、微かな何かでもあれば、今にもその心が雫となって透明なきらめきを落としそうになっていた。

 

全身に込められていた力は抜け、頼りなく、今にも消え入ってしまいそうにしてただその場に佇んでいる。

 

傍にいて誰かが支えてやらなければ、そのままその存在が失われてしまうような、それほどまでに今のアスカの姿は、儚いような、自分を見失っているような、そんな感じがしていた。

 

その全てを眼前の存在に捕らわれ奪われてしまっている、そんな感じがしていた…。

 

シンジも、何も言えずに佇んでいた。

 

まるで呆気にとられたように、今自分の目の前に起こった事が信じられないかのように。

 

そこにいる筈のない存在、失った存在、それが今自分の目の前に与えられた、もたらされた、そんな感じであった。

 

いつも自分の心の中にいた存在、その為に自分は自分の中に自分のものを持つ事ができた。自分自身の大切なもの、自分が自分であると思える、思わさせてくれる何かを手にする事ができた。

 

それは何もなかった自分の心に始めて形をもったもの、想い、決めた事。

 

それをくれた、そうさせてくれた、自身にとっての…。

 

その存在が今自分の目の前にいる、もしかしたらもう二度と会えない、会う事のできないと思っていた少女がシンジの夜空色の瞳に映っていた。

 

シンジの心は、刹那、あの頃へと旅立っていた。

 

出会い、同居、訓練、戦い。

 

そして、争い、喪失、拒絶、別れ。

 

その全ての情景が一瞬の内に蘇っては消えていった。その時に感じていたものはこの時には感じなかった。

 

ただ、思った事はあった。今の自分が自分として、この時に少女を目の前にして感じた事、思った事はあった。

 

…良かった…

 

ただ、それだけ。

 

少女の姿をその目にして、瞳に映して、心に浮かんだ事は、思ったのはただそれだけであった。

 

今この時が、こうしている自分が、あの時の事が、全てが良かったと、それだけしか思えなかった。

 

今、この時に全てが集約されているのなら、この時のためにこれまでの事の全てがあったのなら、そうとしか思えなかった。今ここでこうしている、その姿を目にしている、傍にいる、その事で全てであった。

 

他に何もありはしなかった、その存在、それで全てであった…。

 

シンジの瞳も潤み、その心が、想いが溢れ出してしまいそうになっている。

 

今この時、たとえ一歩を踏み出しただけでも自分の中に込み上げてくる、満たしているものが溢れてしまいそうになっていた。

 

二人はただ、そうしていた。

 

互いの事を、その存在を自身に刻み付けるように、焼き付けるようにしてただ向かい合い、見詰め合っていた。

 

想いが、心が、存在そのものが惹かれ合うように、求め合うように、通い合うように。

 

それが許されるのなら、いつまでも、どれだけの時の流れの果てまでもそうしていたいかのように。

 

時の流れは、二人を隔てる何かにはなり得なかった。

 

そこに、二人を阻みえるものなど、何一つとしてありえる筈もなかった…。

 

 

 

 

予鈴の鐘が鳴る。

 

 

 

 

瞬間、アスカの体がびくりと震えた。

 

視線はそのままではあったが、自分を取り戻したように大きく目を見開くと瞳孔が小さく収縮する。

 

その一瞬の瞳の変化の後にゆっくりと全身に力が入り手が握り締められる。

 

眉が逆立ち、表情はそれまでのものとは一転して険しいものになる。

 

視線もそれまでの澄みきった柔らかなものから、射るような、貫くような、注ぐというよりは睨み付けるようなものになる。

 

きつく結ばれた口元からは何かを擦りあわせるような、軋むような乾いた音が聞こえてきていた。

 

アスカのその姿には、決して許し得ない、自分の存在とは相容れない、全否定の対象を前にした者のような、鬼気のようなものがあった。

 

激しい感情、全身から撒き散らされる気圧。

 

その全てをアスカは今目の前にいる少年に叩き付けていた、シンジに今の自分の全てを放っていた。

 

シンジはそんなアスカの変化に驚いたような表情をした。

 

アスカの様子はシンジの許にも確実に届いていた。シンジは一瞬のその表情の後に自分の心が冷え固まっていくのを感じずにはいられなかった。

 

それまで自分の中にあった暖かなものはすべて消え去り、それにとってかわってあの時に感じていたようなどす黒い嫌なものが広がっていく。

 

シンジにはそのアスカの変化が理解できなかった。あの時の事を今にも引きずっているのならそれは理解できないでもないが、最初に自分に見せてきた、向けてきたあの表情、あの心、あの感じは…。

 

シンジは混乱しそうになっていた。自分の中に蘇ってきたあの時の事、まだ全てを受け入れる事のできない自分、自分の思っているような自分になれていない自分、確実に自分を持ち切れていない自分。シンジは自分が引き込まれていくような、あの時の自分に堕ちていくような感覚を受けていた。

 

しかし、それはやってはならない事、あの時からの自分を、少しは何かをしてきた、自分にとっては精一杯やってきた事を全て台無しにしてしまう事だと残された僅かな自分の心でそう思っていた。

 

もしも、もう全てが終わっているのなら、全てが手遅れになっているというなら、それはそれこそどうしようもない事であった。泣いても喚いてもどうしようもないのなら、それは仕方のない事であった。

 

それを最後に確かめるため、自身の全てを賭けて、シンジは自身の眼前の存在にそれを投げかける。

 

「…アスカ…」

 

その瞬間、アスカの体が大きく震えた。

 

シンジの呼びかけを耳にして、刹那、揺らぐ瞳、心、その存在。

 

しかし、それに反するように大きく肩は動き、表情は更に厳しく激しいものになる。

 

僅かに俯いて荒い息を継ぐ、その表情は栗色の流れに隠れて見えなかったが、そこにあるのは人としておよそ美しいとは決して言えないものであった。

 

そんなアスカにシンジは何も言えなかった。

 

微かに感じた揺らめきも、今受けているものを覆す何かにはなりえなかった。

 

アスカが自分を拒んでいる事は瞳に映るその姿から明らかであったし、もう既に結論はでているような、そんな気にもなっていた。

 

「…なに馴れ馴れしくしてんのよ」

 

俯いたままのアスカから声が漏らされてきた。

 

その奥底から響いてくるような声にシンジは気押されたように、脅かされるようにして体を揺らす。

 

何も言わない、言えないシンジ。

 

そのアスカからの言葉を耳にしたとき、シンジの頭の中は空になっていた、シンジ自身から全てが無くなっていた。

 

呆然として、アスカの方に目を向けている事しかできない。その瞳に、アスカの姿は映っていたのだろうか。

 

そんなシンジに向かってアスカは歩を進め始める。

 

俯いたまま、その表情をシンジに見せないまま。

 

威圧的な雰囲気を消して、シンジには何も感じさせないようにして、そこに何もいないかのように、何もないかのようにして、淡々とした足取りで近づいてくる。

 

二人の距離が縮まる、互いの姿を映さぬまま、互いの存在を確かめ合わないまま。

 

言葉を交じあわせぬまま、一言も発しないまま、二人は互いの存在の傍へとありつつある。

 

刹那、シンジとアスカの肩が線を一にする。

 

「!。アスカ、その、僕…」

 

何かに突き動かされたようにして、現実と向き合ったシンジがアスカに顔を向けて言葉を紡ぐ。

 

アスカは自分に向けられたそれに足を止める。

 

しかし、シンジの方にその表情を向ける事はなく俯いたまま、発せられたのはたった一言であった。

 

「…別に…好きにすれば…」

 

シンジは言葉を失った。

 

頭の中からその全てが消え去ったかのように、何も浮かんではこない。何かをしようという意思もなかった。

 

空白、それだけがシンジの中を満たしていた。

 

その一言だけを残してアスカは再び歩を進めていこうとする。

 

シンジの脇を抜けて、肩と肩が違おうとする。

 

その瞬間、差し出した足を踏みしめ、微かに吐息を漏らした。

 

シンジは、去り行くアスカに視線を追わせようとはしなかった。その場で動けぬまま、アスカのいなくなった虚空にただ顔を向けているだけであった。

 

アスカはシンジから遠ざかっていく、振りかえる事もなしに、留まる事もなしに。

 

それは、この場に来た時と同じ、ただその場から離れたかっただけ、その姿を、シンジの事を目にしていたくなかっただけ、そのためだけに足を動かしていた。

 

シンジの姿を前にしている事は、シンジの事をその瞳に映している事は、アスカにはできなかった。

 

シンジの存在を感じている事は今のアスカにはできなかった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれだけの時間が経った事だろうか、シンジは我に返った。

 

随分と長い時が経っていたような気がしていたが、それは実際にはほとんど一瞬の事でしかなかった。それが証拠に慌ててアスカの過ぎ去った後を視線で追いかけるとまださほど遠くないそこにアスカの去り行く姿が見えた。

 

シンジは一瞬追いかけたい衝動に駆られるが、先程のアスカの事、その言葉、それが心にしこりとなって固まっていてそうさせるのをシンジ自身にためらわせた。

 

その時、小脇の方から声がかけられた。それは問い掛けるというよりは投げつける、浴びせ掛けるという程に大きく厳しいものが含まれていた。

 

「碇君!!」

 

シンジはその声がした方に振り向いた。そこにはそれまで自分の存在をその場から隠していた、潜めていたヒカリの姿があった。

 

「…洞木さん…」

 

シンジはまた驚いたような表情をしたが、それは先程のものとは比べ物になにない程に薄いものであった。急に声をかけられて驚いた、それと同列にみなされる程度のものでしかなかった。

 

シンジは久しぶりの級友に目をやるが、ヒカリは刺すような、責めるような視線をシンジに向けてきている。

 

それはとても再会を喜び合うようなものではなかった。実際、シンジもヒカリもそんな思いは抱いてはおらず、それぞれの中ではそれぞれの別の思いを抱いていた。

 

シンジとヒカリはそれぞれ色の異なった視線を合わせるが、シンジはそのヒカリの視線に耐え切れなかったのか、今この場でのアスカの事についてだろうか、顔をぐっと貶めて、何かに耐えるような、とてもではないがこらえきれない何かを必死になって抑えているような表情になる。

 

そんなシンジを見てヒカリは口を開きかけるが、そこから何かが発せられる事はなかった。

 

ヒカリ自身、どうしていいのか分からなかった。シンジにアスカを追いかけるように言おうとしたが、それが本当にいい事なのかどうか、これまでの事から確証がもてなかったのだ。

 

アスカの垣間見せたあの表情、それは本当に綺麗なものだった。これまで時折見せてきたどんな表情も嘘偽りのもの、紛い物、本当のものではないと言いきれる程にその表情は美しく輝いていた。

 

同性である自分でさえも見とれていた。いや、人としてその姿に、表情に心奪われないものはいない、そうでないものはどこかおかしい。そうヒカリに確信させる程にその時のアスカは眩くも儚く、美しかった。

 

それは心が輝いていたから、何者も及ばない心のきらめきを、その全てを放っていたから。その全てを表した時、アスカは至高の存在になっていた。この世界で最高の輝きを放つ存在に。

 

しかし、それでもまだ全てではなかった。その心には何もなかった。ただ、心を露にしただけであった。もしそこに嬉しさ、喜びがあったらどうなったのか。ある意味怖くもあった。しかし、ヒカリはそれを見てみたいとさえ思っていた。その心で、その輝きで、笑顔でいるアスカを…。

 

しかし、その輝きが収まった後、失われた後、アスカのその姿は…。

 

それが同一人物だとは思えなかった。どうすればこんな事になるのかヒカリには分からなかった。

 

いつものアスカに戻ってしまった。いや、これまでにも表情を険しくした事はあったが、こんなにも酷い事はなかった。

 

そこにある自分の感情の全てを露にしたような、その全てを相手に叩きつけるようにしているような、こんな事はこれまでになかった。

 

気分を害したような表情になりはしたが、それはいつもどこか最後の一線の手前で止められていた。それが表情に現れても、全身に漲らせるような事はしなかった。あの姿をみれば、これまでのアスカはまだ自分を見失ってはいなかったという事が、自分で自分を御する事ができていたという事が分かる。逆に言えば先程のアスカは全てを解き放っていた、自分を抑える事もなしに、その全てを露にし、シンジと周囲に対して向けていた。

 

激しい、熱するような、焦がすような視線とその感情を自分の周囲全てに放っていた。

 

それを思うとヒカリは何も言えなくなる。最初のアスカとその次の瞬間のアスカ。それは全く別個のものであり違いがありすぎた。しかし、そのどちらもが本当にアスカだと思えてならなかった。だからどうしていいのか分からなかった。

 

最初の事を思えば後からのアスカのあの態度は本当の心の裏返しだと思えなくもないが、それにしては激しすぎた。その心の内に根ざしている本当のものがあるとしたらあそこまでの事はできる筈がなかった。あれは本当に不倶戴天の敵を前にしているかのような姿であった。その視線、その気圧で自己の前の存在を消し去る、跳ね除ける、そうしている、しようとしている。それより他には、それ以外にはとてもではないが見えなかった、感じられなかった。

 

もしそうなら、アスカがああなったその根底にシンジの存在があるのなら、アスカとシンジをこれ以上会わせる事は、同一の場に居合わせる事は、この上もなく危険であった。アスカがどうなってしまうのかが分からなかった。少なくともいい事がないのだけは確かであった。

 

だからヒカリは言いかけて、それを閉ざした。最初に目にしたアスカの姿が実は仇敵を目にした狂気の喜びに身を任せたものだとしたら、シンジに後を追わせる事はできなかった、いや、決してしてはならない事であった。

 

アスカを壊してしまう。少なくとも今小康状態にあるというのに決定的な事にしてしまうなど、とてもではないがヒカリにはできなかった。そんな事になるくらいなら今のままの状態でいてくれている方がはるかにマシというものであった。

 

だからヒカリは何も言えずに、何も知らない自分がそんな事をしてはいけないとは思いながらシンジを責めるような目で見据える事しかできなかった。アスカの様子からシンジとの間になにかあったのは間違いのない事であったから、どうしてもそうなってしまっていた。

 

ヒカリはそのまま、何かを吐き捨てるようにしてシンジから視線を外して、アスカの後を追いかけ始めた。

 

「待って、アスカ!」

 

もう姿の小さくなったアスカをヒカリは追いかけていく、決して届かぬものを追い求めるように。

 

シンジはその場に佇んでいた。

 

僅かに俯き、貶められた、何かに耐えるかのような苦渋の表情を浮かべながらその場から動く事なく、身じろぎ一つもできずにその場にただ、独り取り残されていた。

 

何も語らず、何もできず、ただそこに居るだけのシンジ。

 

その心は失われたのだろうか、その想いは無くなってしまったのだろうか。

 

自分に中にあったものは全て、消え去ってしまったというのだろうか…。

 

虚ろを照らし出す日差し、その身を過ぎていく時の流れ。

 

それはその場にいるものに確かに自己の存在を感じさせるものであったが、今のシンジは果たしてそれを感じているのだろうか。果たして彼はそこにあってそこにないような感じがしていた。

 

ふと、右手の指先がピクリと動く。

 

 

ゴツッ

 

 

「…っ…くっ…」

 

握り締められた右手の拳が傍らの壁に打ちつけられていた。

 

「…僕は…僕は…」

 

白くなる程に固く閉じられた手のひら、壁との隙間からは紅が滲み広がっていく。

 

「…終わったんだ…もう…全てが終わってしまったんだ…」

 

先程のアスカのあの表情、それは最後の時に自分にその感情の全てを叩き付けてきた時のものをシンジに思い起こさせていた。

 

事実はそれとは微妙に違っていたのだが、かつての事を振り切る事も受け入れる事もできていないシンジにはその事は分からなかった。

 

ただ、あの時と同じ顔で、あの時と同じ感情を、あの時と同じ心を自分に向けている、自分に抱いている、そうとしか見えなかった、感じられなかった。

 

「…いや…最初から終わってしまっていたんだ…あの時に終わっていたんだ…どんなにあがいても…無駄だったんだ…どうにもならなかったんだ…」

 

あの時の事、最後の最後でアスカにしてしまった事、それがシンジの心に巨大な楔となって突き刺さっていた。

 

それが例えどのような理由、事情があるにせよ自分のした事は消える事のない、動かしようの無い事実。どのように口を拭ってみても、言葉を操ってみてもそれは変わる事なく厳然としてそこに存在している現実のものであった。

 

「…僕は…許されない事をしでかしてしまっていたんだ…僕がどんなに望んでも…他の誰がそうしてくれても…決して許されない罪を…」

 

シンジはあの時の光景をまざまざと思い起こしていた。

 

戦いの中で自分の傍にいた人を、自分と共にあった人を、自分の中に居続けた人を、淡い想いの中にいてくれていた人を、その手にかけようとしていた時の事を。

 

自分でもう一度会いたいと想いながら、傍にいたいと願いながら、戻ったそのすぐ後に自分のしでかしてしまった事を思い出していた。

 

あの時の恐怖は本当のものであった、あの時、自身の中にはそれ以外にはなかった。それは事実。

 

だからといってそんな事が許される筈もない。それまでにあった事、それも決して無視できるものではなかったが、それがあの時にしてしまった事の言い訳になどなる筈もなかった。

 

それをしたのは自分、あの時の先にいる今の自分、その時の事と今の自分を切り離せる訳もなかった。捨てる事も消す事もできない、それは絶対の事実。

 

あの時、アスカが自分にぶつけてきたもの、それは間違いなくアスカが自分に対して思っていたものなのであろうが、その源にあるのが善意にしろ悪意にしろそれは碇シンジという人物の一端を捕らえていた。それが全てという訳ではないが、根幹をなしているものである事は間違いなかった。

 

それは自分自身が誤魔化していた事、目を向けようとしていなかった事、それをアスカは突きつけてきていた、いや、突きつけてきてくれていた。それを受け止めるか拒否するかはその人次第なのだが、それをしてくれなければ自分はいつまでも変わらぬ自分でいたかもしれない、自分の嫌いな自分に…。

 

今の自分、ほんの少しだけれども、僅かだけれども自分の中に何かを持つ事ができるようになっていた、手にする事ができるようになっていた。そんな自分がシンジには嬉しかった、少しは自分というものが持てるようになれた事が嬉しかった。

 

あの時の事を経て、今の自分になれた。少しは自分の事が好きに、大切に思えるような自分になれた。それをくれたのは、そうさせてくれたのはその時に心と心をぶつけあったアスカだというのに。

 

そのアスカを自分は手にかけようとした、自分のエゴをむき出しにしてその存在を消そうとした。許される筈がない、その事から自分が解放される訳もない。

 

その楔は、生涯自分に打ち込まれたまま、決して解き放たれる事はない。シンジは自分のしでかした事の大きさに、その深さに今更ながらに打ちのめされていた。

 

「…でも…でも僕は…」

 

シンジに刻み込まれた、自分で自分に刻み込んだ刻印、それは決して消えるものでも癒されるものでもなかった。

 

しかし、その事とは別にして、シンジの中には確かに存在しているものがあった。

 

それは自分のしてきたどのような事実も、それに対するどのような理屈も観念も越えたシンジ自身の想い…。

 

それが一体なんなのか、それをはっきりと認識する事、言葉にする事はシンジ自身にもできなかったが、それはシンジ自身の中に確かに息づいていた。

 

シンジ自身を照らす仄かな明かりのように、暖かにそこに灯っていた。

 

だから、シンジには全てを捨て去る事ができなかった。外に向かってその想いに基づく何かを行使する事はシンジ自身の意識からする事はできなかったが、それを自分の中で暖め持ち続ける事はできた。いや、それと意識する事なく持ち続けてしまっていたし、捨てる事も消し去る事もできはしなかった。

 

それはアスカが自分に持たせてくれた、手にさせてくれたものだから…。

 

今の自分になるために、自分を支えてくれた、自分の中で育んできた大切な大切な想い、心の形。

 

だから、シンジは思う。アスカとの事はもう自分にはどうする事もできない事、自分のしてしまった事に全ての源はある、アスカが自分を拒絶するのは至極当然の事だし、それだけの事を自分はしでかした、その結実がこれだというのなら、本当に悲しいし、本当に嫌だし、本当に辛いけれどもそれは受け入れなければならない、受け止めなければならない、と。

 

だが、自分が特にアスカに対して何もしないのなら、自分の中にあるものを持ち続けるのは、そのくらいなら許されるのではないのか、許して欲しいとも思っていた。自分の中でその想いを秘める事だけは許して欲しいと思っていた、願っていた。

 

それすらも許されなかったら、自分はどうなるか分からない。今のこの時にでさえ自分というものを形づくっている事でさえもできはしないのではないのかと思えた。だから、この想いだけは決して知られてはならない、自分の中の奥底に沈めて、本当に秘めたものにしなければならないと、そうも思っていた。

 

自分とアスカにとってそれが一番いいのではないのかと、シンジはそう思った。そして、それは確信に変わる。

 

「…アスカ…僕はもうアスカには関わらないよ…だから…だからこれくらいはいいよね…僕にとって…本当に大切なものだから…」

 

シンジはここにはいないアスカに語り掛けるようにして、自分に言い聞かせるようにして言葉を紡ぐ。

 

それは苦渋に満ちた、自分の全てを押し殺したような、押し殺そうとしているような、そんな響きに満ちていた。

 

そんな決心というものもこれまでのシンジにはできなかった事、それをシンジに為させていたのはシンジの中にあるものなのだろうか…。

 

シンジの全身には何かに耐えるように力が込められ、小刻みに震えていた。顔はこれ以上ないくらいに俯きどこまでも堕ちていくような、そんな感じがしていた。

 

そして、これが最後だとでもいうように、心の中にあるものがその口から漏らされる。

 

 

「…アスカ…」

 

 

それはシンジの心が覆われた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

走る、走る、走る。

 

何かを振り払うかのように、何かから離れたいかのように。

 

そこに居てはならないかのように、まるで自分をせきたてるように、それが今自分のできるただ一つのことであるかのように。

 

乱れる息も、高鳴る鼓動も気にならなかった。

 

手が、足が、勝手に動いていた。

 

例え限界がきたとしても、止まらないかもしれない、それに気がつかないかもしれない。

 

その足が止まる事、その動きが止まる事、それは今のこの時点ではありえなかった。

 

流れ行く風景も、目の前の光景も、関係なかった。

 

アスカはただひたすらに駆け続けていた。

 

あの時から、校舎裏での事から、その場から自分を異にした時から、留まる事なく、振りかえる事なくただひたすらに走り続けている。

 

前を見る事なく、その瞳に何も映さず、果たして自分が今どこにいるのかも、何をしているのかも知りもせずに。

 

今のアスカにはそんな余裕はなかった。その心の全ては自分の内へと向けられ、外の事などまるで関係がなかった。

 

自分自身の事でさえも関係がなかった、どんな状態でいるのかも分かっていなかった、分かろうという意識さえも無かった。そんなものが介在する余裕などは微塵たりとてありはしなかった。

 

その全ては自分自身に向けられていた。

 

「(…何を…何をしているの?…アタシ…)」

 

それはあの時の事、シンジと相対した時の自分の事。

 

「(…どうして…どうしてあんな事…あんな事を言うつもりなんてなかったのに…)」

 

アスカはその時の事を振り返る。少し前の校舎裏での自分の事を。

 

そして、それと共にアスカの心にはあの時の事が思い起こされてきていた、最後の戦いの時の事が。

 

それまでに自分自身がしてきた事の結実、その結果。自分が共にいた、一緒にいた少年との最後の情景がアスカの心の中に映し出されていた。

 

それを思う時、少なからずアスカの心は波をうった。心がざわめき胸を締め付けられるような感覚が走りぬける。

 

「(…分かっている…分かっているのよ…あの時はどうしようもなかったって事くらい…他にどうする事もできはしなかったって事くらい…)」

 

アスカの心は揺れながら沈んでいく。それは校舎裏で激しく動いた後の反動であるかのように、ゆっくりと、しかし、確実に深淵へと向かって堕ちていく。

 

「(…アイツは…シンジは悪くなかった…シンジが悪い訳じゃなかった…シンジはシンジなりに必死にやっていたもの…自分が望みもしないのに押しつけられて…自分の事を自分で決めさせても貰えずに…状況に巻きこまれて…命を…自分の全てを…他人に…奪われて…)」

 

アスカの心は時を遡っていく、それは不規則に乱れ整然としたものではなかったが、アスカ自身、これまでにした事のなかった自分自身への邂逅をしていく。

 

「(…アタシもシンジも必死だった…あの時…自分達の全てをかけていた時…激しくなる戦いの中でアタシ達は次第に余裕を無くしていき…自分の事だけで精一杯になった…それ以外に何もなくなってしまっていた…)」

 

アスカは淵に辿りついた、自分の中に横たわるそれを少し離れたところから眺め渡す。

 

「(…今なら分かる…シンジはただ自分を守ろうとしていただけだった…自分を保とうとして必死なだけだった…何の力もない…何もない自分に…どうにかしようとして…あがいて…苦しんでいた…シンジが悪かった訳じゃない…)」

 

アスカの中にあるそれは時の流れと共に幾分昇華されているようであった。それがアスカにそれと向き合う事を可能ならしめていたのだが、アスカ自身の主観による改竄、美化もされていた。アスカのそうあって欲しいという希望的観測がアスカにとっての真実となっていた。

 

「(…アタシもそうだった…必死だった…全てをかけていた…その事には誰にも何も言わせない…決して譲れない…アタシ達に何か言えるのは…アタシ達自身だけ…他には誰も許さない…)」

 

アスカの心はそれを映し出していく、自分が味わった事を、自分が味あわされた数々の事を。

 

「(…でも…アタシは自分を保つ事ができなかった…亡くしてしまった…自分を…捨ててしまった…全てを…シンジは自分自身でいられたというのに…戦い続けていたというのに…自分と…周りの全てと…アタシは全てを投げ出してしまった…自分を含めた…全てを…)」

 

アスかの心は怯みを感じずにはいられなかった、それはアスカのこれまでの人生の中で最も辛かった時期の内の一つ、それを目にしただけでも、感じただけでも怯えずにはいられなかった。

 

しかし、それはしなければならない事。アスカは更に自分の心を進めていく。

 

「(…シンジは…シンジは悪くない…最後の最後まで戦い続けていたシンジが悪いだなんて誰にも言えない…悪いのは…巻き込まれた状況…それをつくった…それをどうしようともしなかった周りにいた大人…何もできなかったアタシ…シンジ以外の…周りにいた全ての人達…)」

 

少しづつ、少しづつ、アスカはその深みへと入っていく。自分が乱れないように、平静を保ったままでいられるように。これ以上の混乱にアスカは耐えられる自信がなかった。

 

「(…でも…でも…嫌だった…あの時のシンジは嫌だった…傍にいるのに頼ろうとしなかったけど…何も頼もうとしなかったけど…嫌いじゃなかったけど…それでも…あのシンジは嫌だった…)」

 

媚びるような目、おどおどとした態度。シンジは何をしたという訳ではないが、その時のアスカにとっては不快の源のような存在であった。

 

何もしない事、それこそがアスカがシンジを嫌だと思わせていたのかもしれない。

 

「(…アタシもシンジも子供だった…何の力もない…無力だった…周囲の状況に…自分達の事でさえも…どうする事もできなかった…どうしようもなかった…それは分かっている…でも…それでも…あの時の…あの時のシンジだけは…)」

 

アスカの心の奥底にあるもの、それはあの時の状況とシンジの事を考えあわせてアスカ自身にそれを理解させようとする。

 

あの頃、シンジはアスカを含めた周囲の状況から次第に自分の中にある可能性を失いつつあり、過去の自分だけを、それも悪い形で出す事しかできなくなっていた。

 

それは誰かが、普通であれば親が導いてやるべきだったのだが、シンジの周囲にはそんな人は誰もいなかった。シンジ自身も内へと篭り誰かを頼みにするような事はしなかった。

 

それはアスカにも分かっていた。しかし、それはアスカ自身とて同様だった。それが為かアスカにはそんなシンジを許す事ができなかった。

 

シンジに対してアスカは後ろ暗いものも持っていた、その反動もあってか、シンジに対して頑なになっていたのかもしれない。

 

「(…一連の戦い…崩れていく自分自身…アタシ達…周りには誰もいない…傍にいるのはアタシ達だけ…アタシ達はアタシ達自身を互いに一番見ていた…それは間違いのない事だと…そう…思う…少なくともアタシは…シンジを一番見ていた…)」

 

アスカはシンジを、シンジはアスカを見ていた、それは間違いの無い事実だろう。しかし、心に映っていたかどうかは分からない。

 

その時の二人の事はそれこその時の二人だけのものだが、しかし、当人であるアスカにはその時の事を見つめ直す事ができた。今そうしているように。

 

その時のアスカの心は今となってはアスカ自身にさえも正しくは分からないが、少なくとも今のアスカは間違いなくその時のシンジの事を一番見ていた、見詰めていた。

 

「(…自分の中で…苦しみながら…もがきながら…何もしない…ただ耐えて…流されていくだけのシンジ…全てを自分の中にためて…自分の中に向けて…それを受け入れる事もしなかったシンジ…)」

 

だから、アスカには分かっていた。他の誰よりもシンジの事が。

 

「(…自分を表す事もせずに…理解されようとしない…他との距離を適当にとって…踏みこんでくる事も離れる事もしようとしない…何かを与える事も与えられる事もしようとしない…)」

 

シンジ自身にさえも、いや、自分だからこそできない、心の奥底、そのありようを見つめる事ができていた。

 

「(…傷つけられる事が怖くて…でも誰もいなくなるのは寂しくて…もっと怖くて…傍にいれば傷つけ傷つけられるから…それが嫌で…怖くて…ただそこに自分があるだけ…ただそれだけ…それが全てだったシンジ…)」

 

否応なしに感じるもの、心が感じてしまうものと共にそれは分かっていた、分かってしまっていた…。

 

「(…全部自分が悪い事にしていた…なにかあればすぐに謝っていた…自分の存在を消される事を恐れて…他人に受け入れられなくなる事が怖くて…)」

 

それを思う時、アスカの心に微妙な感情が疾る。

 

それはアスカの心に波風をたててアスカ自身を乱そうとする。

 

しかし、アスカはそれを心を強く持って抑えた。これは受けとめなければならない事、見つめなければならない事、今はまだ自分に負けるわけにはいかないと自分自身に言い聞かせながら。

 

「(…そんなシンジが嫌だった…それがシンジの全てだとは思わなかったけれどもその時のシンジはアタシにそんなところばかりを見せていた…だからアタシはシンジの事を嫌いはしなかったけれども疎みはした…シンジのそんな部分をアタシは受け入れる事も認める事もできなかった…)」

 

離れ始めた二人、戦いが激しくなり始めた頃。

 

嫌な事がたて続けに起こってきていた。二人をとりまく周囲の状況は二人の間を切り裂くように作用していた。

 

そして、二人自身もまた、互いに癒し合い、互いに支え合える事はなかった。

 

それどころか、直接的ではないにしても、互いが互いを傷つける事さえもあった。

 

傍にいた二人、だからこそその傷はどんなものよりも深いものになっていた。

 

そして、そんな二人は、アスカは激化していく戦いの果てに…。

 

「(…そして…アタシは自分を失った…傍にいたというのに…互いの他には何もなかったというのに…シンジから離れた…自分から遠ざかったアタシは一人になって…耐える事も止める事もできずに…壊してしまった…無くしてしまった…自分を…アタシ自身を…)」

 

自己破壊、アスカは自分で自分を壊してしまっていた。

 

自分が生きるために自分で築き上げていたプライド、それは何時の間にか自分の内にあって自分を高めるものではなく、外にあって自分を形どっている自分自身そのものになってしまっていた。

 

自己存在の確立のなさ、エヴァというものにかけた存在意義は自分のありようよりも頼っていたそのモノにこそ左右された。

 

だから、それを失った時、エヴァに乗れなくなった時、アスカの存在はそれと共に失われた、壊れてしまった。

 

「(…でも…それだって…別にシンジが悪い訳じゃない…シンジは関係すらしていない…勝手に壊れたのはアタシ…全部自分でやった事…シンジは悪くない…悪かったのは…アタシ…)」

 

その後アスカは廃墟のバスタブの中で発見された。

 

頬はこけ、濁った、何も映さない瞳で、虚空を見つめていた。

 

その心にあったのが何なのか、それはアスカ自身にでさえも分かりはしなかった。

 

ただ、発見された当初は何事か小さなつぷやきを時折漏らしていたという。

 

そして、アスカは病院に収容された。

 

脳神経外科303号室。

 

そこがアスカの新しい置き場所であった。

 

「(…そして…最後の戦い…アタシは自分を失ったまま…エヴァに乗せられた…)」

 

巻き起こる人と人の戦い、人自身を守る場所の筈のそこは血で血を洗う殺戮の巷と化した。

 

「(…響く爆音…震える空気…打たれる体…死の恐怖…アタシはその中で…ママの存在をエヴァの中に見た…感じた…)」

 

溢れる光、暖かな心。

 

アスカが自らを閉じ込め死の淵に瀕した時、エヴァから生じた仄かな灯りはアスカを優しく、暖かく包み込んだ。

 

「(…甦る心…自分を取り戻したアタシ…アタシを見てくれていた…守ってくれていたママ…アタシは再び戦いへと赴いた…)」

 

空を舞う白いエヴァ、降り立つ九体、アスカの前に現れた、敵。

 

「(…でも…アタシはそこでも負けた…勝てなかった…自分自身も…大切なものも…ママを…守れなかった…)」

 

自分を貫いた槍、地に倒れる身体。

 

群がり、喰いつくしていく、敗者に残すものなど何もないとでもいうように。

 

「(…奪われた…失ってしまった…何もかも…)」

 

母親との再会、逢瀬、その直後にその場は略奪の地と化した。

 

アスカは失った、母親と自分自身の心と身体を同時に。

 

「(…そして…世界は一つになった…全ての人が一つに…そこでの…シンジとの再会…そこでシンジは…初めてアタシを求めてきた…縋ってきた…全てを失った…疲れ果てていた…アタシに…)」

 

甦る心象風景、その時アスカの心にはあの時の光景が映し出されていた。

 

疲れきった自分達の顔、アスカはシンジを、シンジはアスカを思い遣る余裕などその時には欠片程もありはしなかった。

 

久しぶりの再会は最悪の形で行われ、アスカの心にはそれを喜ぶどころか、自分の前に現れた少年に対する嫌悪の念しかなかった。

 

「(…そんなシンジをアタシは受け入れなかった…拒絶した…徹底的に…否定もした…シンジの全てを…狂気に犯された心で…)」

 

その時の事を見つめるアスカの心に細波が疾る。

 

歪んだ表情、醜い心、その全てをアスカはシンジに叩きつけていた。

 

そこにどんな理由があろうとそんな事が許される筈はない、どんな事があったとしてもそれは人として、してはならない筈の事。

 

アスカの心は言いようの知れない痛みと悲しみに揺れた、それはその時の自分とそんな状況に追いこまれなければならなかった自分自身の定めへの憐憫だったのかもしれない。

 

「(…そして…戻ってきた直後…シンジはアタシを…)」

 

赤い水をたたえた湖のほとり、アスカとシンジは並んで横たわっていた。

 

周囲の風景には最早何もなかった、ただ赤い光景が広がっているだけだった。

 

シンジがふと、視線を巡らす。

 

アスカは虚空を見つめる暗く澱んだ瞳を微かにも動かそうとしない。

 

シンジがアスカの上にまたがる。

 

その蒼白といってもいい程に白い首に手をかけ力を込めた…。

 

「(…でも…それだってシンジが悪い訳じゃない…そこまでの事をシンジにさせるようにしたのはアタシ…追い詰められたシンジをアタシは認める事も受け入れる事もしなかった…それどころか更に追いつめた…狂った心で…)」

 

シンジにそこまでさせた、そこまでの恐怖を与えたのは自分だとアスカは思った。

 

人に対して何かを恣意的にやろうとは決していなかったシンジがそんな事をするなど余程の事だったのだろうともアスカは思う。実際、あの時のアスカはそこまでの事をシンジにしていた。

 

しかし、それはアスカにしてみても仕方のない事だった、シンジが自分に対して思っていたのと同じ事をアスカもシンジに対して感じていた。

 

「(…あの時のシンジは本当に嫌だった…憎んでさえもいたのかもしれない…でも…あの時のアタシもシンジも普通じゃなかったって…今なら…そう…思う…だから今…シンジの事を嫌う事も…憎む事も…ない…アタシの中に…そんなものは…ありはしない…ただ…あの時のシンジが…嫌だっただけ…ただそれだけ…)」

 

それが果たして事実であったのかどうかは誰にも分からない、それがあの時の事を体験した今のアスカであったとしても。それが分かるのはその時のアスカとシンジだけであった。

 

しかし、その時のアスカがどのように思ったのかその事実が奈辺にあるのかどうかはともかく、少なくとも今のアスカはそう思っていたし願ってもいた。

 

その思いが本当の、心からのものであるかどうかでさえもアスカ自身分からなかったが、その願いが本当に自分の心からのものであって欲しいと自分自身に対して祈るような気持ちでいた、望んでいた。

 

それが自分のどのような想いからきているものなのか気づきもせずに、思い到ろうとする事もなしに…。

 

「(…最後にシンジがアタシにした事も…その手にかけようとした事も…もういい…あの時…シンジは止めてくれたのだから…心からの恐怖…完全な拒絶の中でさえ…アタシがそれと望んだ時に…ちゃんと応えてくれた…止めてくれた…今こうしてここにいるアタシ…そしてシンジ…それでいいと…思う…)」

 

アスカの心は次第にあの時の事から今の自分へと、今現在の自分の許へと戻ってくる。

 

あの時の事はあの時の事として、その時に自分がどう思ったのかはともかく、今の自分がシンジに対してどういう思いを抱いているのか、そこに思いを巡らし始めた。

 

アスカの心はあの時に感じていた事を今に引き継いではいなかった、少なくとも今の時点ではアスカにはそう思えていた。

 

だからなのか、アスカは今の自分の事を、その心に抱いているものを感じようとしていた。シンジに対してあの時と同じ快くないものをその胸に抱いているとすればそもそもがそんな事はできなかっただろう。

 

それができるのなら、自分の中にあるシンジへの思いがどのようなものであるのか、それをアスカは知りたかった、自分の中で自分のものとして感じたかった。

 

「(…アタシは…シンジの存在を否定したりはしない…今のシンジを…嫌う事も…憎む事もしない…あの時の事を今とつなげる事なんてできない…あまりにも過酷な状況…狂っていたアタシ達…そんな中にいたシンジを…それが本当にシンジだと思う事はアタシにはできない…もしかしたら…それは…全てではなくても…シンジの側面の一つだったのかもしれないけれども…そんな心の暗い部分なんて誰でも持っている…アタシだって…あの時のアタシは正にそうだった…アタシ達は…同じだった…そんな所ばかり表にだして…露出させて…それがアタシの全てだなんて…シンジの全てだなんて…そんな事…絶対にない…アタシにだって…自分でそんな事は言えないのかもしれないけれども…いいところはあるんだって…あんな部分ばかりじゃないって…そう…信じている…シンジだって…あんな部分ばかりじゃないって…いいところだっていっぱいあるって…信じている…だって…アタシはシンジの事を一番よく知っているから…そう…信じている…シンジの事…信じている…)」

 

その事を思う時、アスカの心は揺れていた。

 

今アスカが思った事、それはシンジがそうであるという事実というよりはむしろアスカの思い描いている望み、願いというものであった、シンジがそうであって欲しいという。

 

その事はそれを思ったアスカ自身にも分かってはいた、それか何らの根拠もないただの自分の願望、希望的観測にしか過ぎないという事が。

 

しかし、アスカはそう思いたかった、願いたかった。

 

あの時の事が自分とシンジの全てだなどとは思いたくないし耐えられるものではなかった。

 

「(…いつも一緒にいた…傍にいた…心をぶつけあった…そして…互いの存在を…感じ合えていた…でも…だからって…シンジの全てが分かっている訳じゃない…そんな事はあり得ないのかも知れない…でも…シンジの事を一番良く分かっていると思う…他の誰よりも…傍で…見ていたのだから…感じていたのだから…心を…感じる事ができたから…)」

 

その想いは暖かくも穏やかに、アスカを満たしていった。

 

人の事を想う時、いや、アスカにとってはシンジの事を想ったからだろうか、それはアスカ自身の内に心地いい優しいものをもたらしていた。

 

どうする事もできない嬉しいような、もどかしいような、そんなうまく言葉にはできない何かをアスカは自分一杯に感じていた。

 

その想いに自分の全てを委ねてしまいたい、そんな思いさえ抱かずにはいられなかった。

 

今、アスカはシンジの事を想い、感じていた。

 

「(…だから…信じている…シンジの事…アタシ…信じているよ…シンジ…)」

 

今、その場にはいないシンジに語り掛けるようにして思いを告げる。

 

それが、今のアスカの全て。

 

アスカは、シンジの事を信じていた…。

 

「(…でも…)」

 

全てがシンジの事で満たされていた心に翳りが宿る。

 

その瞬間にアスカの身体は宙を舞った。

 

「あっ!?」

 

小さく声を上げて身体が地面に打ちつけられた。

 

かろうじて反射的に顔はかばったが受身をとる事は全くできなかった、鈍い音がして息がつまる。

 

意識が混濁しそうになる程の衝撃、アスカは必死になってそれを抑えた。

 

自身の全部で耐えていると少し落ちついてきた、無意識に面を上げる。

 

そこでアスカは初めて周囲の状況に目を向けた。

 

倒れたのは整地されていない地面の上、周囲には誰もいなくて緑の芝生が外縁を囲んでいる。

 

どうやら自分でも意識しないままに走り続けていたアスカは学校の外にでて、このどことも知れない公園にまでやってきたようであった。

 

周りに人の気配がなかったのは幸いであったろうか、少なくとも無様に大仰にひっくり返ったところは誰にも見られなかったようだ。

 

しかし、そんな事は今のアスカにはどうでもいい事だった。そこに誰がいようとも気にするような状態ではなかったし、そんな他人の目など関係のない事以外の何ものでもなかった。

 

アスカは少しの間うつ伏せに倒れたままでいたが、やがてゆっくりと緩慢に身を起こす。

 

真新しい制服は土埃にまみれていた、それはまるで汚れを知らぬものが汚されたような喪失感をそれを目にするものに、あるいはそれを身に纏っているものに与えるかのようでもあった。

 

手も足も埃にまみれている、擦りむいた個所から赤い流れが湧き出し周囲を鮮やかに彩っていく。

 

赤い光沢を帯びた栗色の髪はほつれて乱れ放題に乱れていた、全身から汗が吹き出し纏っているものはそれを吸って重くなる程に湿っている。

 

今もまだ額や首筋から幾筋も吹き出してくる汗が流れていく、息はこれ以上はない程に浅く速くその間に一言でさえも差し挟む暇をも与えはしないようであった。

 

アスカは暫くの間、呆然としたようにしてその場に佇んでいた。

 

薄汚れた服装、乱れきった身なり、そんな人には決して見せらないような格好のアスカではあったが、降り注ぐ陽光の中に照らし出されたその姿はそれでもなお美しかった。

 

乱れた髪は光の粒子を乱反射させ幻の中にいるかのような雰囲気を醸し出し、汚れたその姿は凄惨な美をそれを目にする者に感じさせずにはいない。

 

透明な流れがアスカの脇を通りぬけ、栗色の髪を揺らしていく。

 

過ぎ去りしそのものはアスカを優しく包み込み、意識を誘うようにして消えていく。

 

それに従うようにアスカはその流れに身を任せ、ゆっくりと歩を進めて芝生の木陰へと入っていく。

 

木の茂りの隙間から落ちてくる陽射しはアスカの身体に光と陰の模様を映し出す。

 

一つの木の身に背中を預けてアスカはずり落ちるように、崩れるようにしてその場に身を落とした。

 

力なくうな垂れる頭、全身は糸のきれた人形のように砕けてその全てを自分の背後にあるものに委ねきっている。

 

「…でも…」

 

ポツリとアスカの口から言葉がもれた、止まっていた思考は全く同じそこから再開された。

 

「…でも…だったらどうして?…どうしてアタシはあんな事…」

 

その全てが抜けきった身体に僅かにだけ意思が込められ、両腕が両膝を抱え込む。

 

「…せっかく…会えたのに…二年も会えなかったのに…アタシと…あの時を…同じ時を共有できた…たった一人のヒトなのに…もう…嫌っても…憎んでもいないのに…どうして?…」

 

その心から溢れ出した感情が全身を駆け巡り、それはアスカ自身を小さく震えさせる。

 

「…信じているのに…それなのに…どうして?…どうしてなの?…アタシ…アタシ…」

 

アスカの心にはあの時の少年の顔が、再会を果たした少年の顔が、その姿が映し出されていた。

 

「…分からない…分からないよ…アタシ…自分が…どうしていいのか…どうしたらいいのか…どうしたいのか分からない…分からないよ…」

 

何かに耐えるように、自身を抱くように、自身の存在を確かめるかのようにアスカの両腕に力が込められ、その面を自分の腕の中にある両膝に埋める。

 

「…いや…もういやぁ…こんなのないよ…こんなの…こんなのって…アタシ…アタシ…」

 

アスカの心は混沌として乱れ、自分自身でさえもそこにあるのが一体何なのか、一体何を望んでいるのか、何を求めているのか分からなくなっていた。

 

ただ、自分でも意識する事のできない、自覚する事のできない、そんな混乱した中でも決して揺らぐ事のない確かにそこに存在しているものがその口から漏らされた。

 

それこそが、今のアスカの中にあるただ一つだけのもの。アスカ自身の、どんな事をしても、何をしても、何があっても変わる事のない真実、アスカの心が求めているもの。

 

アスカ自身、それと気づかずに、意識する事もなしに、自覚する事もなしにその言葉を、口にしていた。

 

 

「…シンジぃ…」

 

 

その頬に、雫は流れていなかった…。

 

 

 

 

<第三話 了>

 

 

<第二話へ>

<第四話へ>

 

 


長い文章にお付き合い頂きましてありがとうごさいます、TAKAです。

今回は前回、前々回の話しを受けてそれらが交じり合う部分としての位置付けになっています。

ようやくLASのお題目に違わず二人が同時に登場するという事になりました、これでようやくこの作品も面目を保つ事ができるようになったのでしょうか?。

二人は再会を果たしました、これからようやく本流に入っていくといったところです。

それにしましても分量がこれまでの4倍にもなってしまった事は申し訳ない事と思っています、作者としてはできる限り余分な部分は端折ったつもりなのですが、これで精一杯でした。

ひとえに作者の力量不足のせいです、尚一層の精進を致したいと思います。

作中の事についてひとくさり、今回については二人のキャラクターが前回、前々回で描写したものと違う部分がありますが、今回は突然の再会という特殊な状況の中、曖昧な感じをもたせたかったのでこのような感じになりました。

ただ単に作者がいい加減だという話しもありますが(笑)。

最後の方で記述しているアスカさんの本編中における描写とそれに対する心理については読者の方々それぞれに思うところがあると思いますが、本作品の中ではこのようにさせて頂きました。

実際のところはそんなに簡単に割り切れるものではないとも思うのですが、作者の精神衛生上これで限界でした。

お許し下さい、理屈にあっていないのは百も承知しているのですがこれ以上は…(泣き)。

序盤はこれで終息に向かいます、次回はそれぞれの心、それぞれの想いに焦点をあてたいと考えています。

それしましても、アスカさんぼろぼろでしたね(笑)。

次回は今回よりも簡潔明瞭なものにしたいと思います、余りお時間をとらせないように致しますので、それでは。

 

1999.5.24 am 1:39 TAKA

1999.8.1 am 11:47 改訂

 



うーん、二人とも堂々巡りだな...。(汗)

というわけでTAKAさん連載第三話ありがとうございますー。\( > 0 < )/くえー

うーん、シンジ君成長してるのか?( ^_^;)どうなんでしょ
結局まだ自分の事しか考えてないような気がするのよね...。今後に期待かな

アスカ様の葛藤。こりゃ当然だな。
そう簡単に受け入れられるほどたやすくは無いと思うんだよね。(←ちょっとまじめ(笑))
一度はココロから憎んだ相手だからねえ..。うーん、難しいね
憎悪と愛情は表裏一体。どうなるかはわからんよね。<ヲイジブン

さあ、この偶然の再会が二人に何をもたらすのか。次回も必見ですね。
早速TAKAさんに感想&応援を書いてつぎもシリアスに迫って貰おー。\( ^ 0 ^ )

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